元禄14年(1701年)1月、吉良上野介義央(よしなか)が将軍の年頭の挨拶を朝廷へ届け、それに対する答礼として伝奏の勅使が江戸に下ったのが3月11日であった。
この折、勅使の御馳走役に任ぜられていたのが浅野長矩(あさのながのり)である。
12日、勅使・院使の登城。天皇・上皇の詔を将軍に伝達など。13日、城内での能楽催しと饗応。翌14日は、勅使一行が将軍に別れの挨拶をすませば、今回の御馳走役の任務は滞りなくおわるはずの午前9時半ごろ、事件が起きた。
勅使たちの登城前であった。これから将軍が謁見を行う手筈になっていた城中白書院近くの中庭に面した廊下(松の大廊下)で、長矩が勅使接伴役の義央に斬りかかったのである。
その場に居合わせた御留守居番梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)が長矩を抱き留めたため、長矩の小刀は義央の顔面と右肩に傷を負わせただけで、殺害には至らなかった。
殿中で刃傷に及べば、切腹、家は断絶することは過去の例からみて、だれしも知悉(ちしつ)している。では、それを承知の上で敢えて刀を振った長矩の真意は?
加害者本人の明確な言がないまま、即日切腹となったため、その真意をめぐって諸説が生まれることとなるのである。
当人の言としてはっきりしていることといえば、長矩を抱き留めた際、梶川が耳にした「この間の遺恨、覚えたか」がひとつ。もう一つは、刃傷のあと即刻預けられた田村右京太夫建顕(たむらうきょうだゆうたてあき)の芝田村町邸で「口上書」として家臣に伝えた「兼ねては知らせ置く可く存ぜしも、その遑(いとま)なく、今日の事は已むを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ず可き乎」があるのみ。
いずれの言葉からも、意趣のあったことは知れるが、具体性に乏しすぎる。
例えどんな意趣があったとしても、藩主たるものが正気の沙汰で城中で刃傷に及ぶとは、はなはだ解せない行為と言わざるをえない。ここに、乱心説の生まれる根拠があったろう。
「乱心者!」とは、封建制度のもとで上位者が下位の者に対してしばしば浴びせてきた言葉である。つまり、封建秩序を覆す所業に対して発せられる言葉で、理不尽なものを糾弾するときの手前勝手な割き切りかたの方便に過ぎない。
長矩の行為が乱心、つまり狂気とするには、すぐあとの彼の行為と相容れない部分が多すぎる。先の、田村邸での口上書にしろ、作法通り辞世の歌を詠んで粛然と死に臨んだ態度といい、冷静さをうかがわせて余りあろう。また、辞世「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残を如何にとかせん」から汲み取れる生への未練と悔悟の心は、狂気から生まれようはずもなかろう。
となると、長矩の短慮こそが刃傷という大それた事件に走らせた、と考えざるをえない。むろん、この短慮の裏には種々な意趣・怨恨が張りついていることは言うまでもない。
そこで、短慮を促した意趣内容が俄然注目を浴びるわけである。
現在までの意趣説では、長矩が、殿中での儀式を預り公武の礼式に通じた義央に賄賂を贈らなかったため、義央が意地悪をしたというのが支配的だ。他に、赤穂のすぐれた製塩技術を吉良方が知りたがったのを、浅野方で断ったことによる反目。果ては、長矩の寵愛する美少年を義央が譲ってくれと頼み断られた、という男色横恋慕説もある。
しかしどの説も、浅野の浪士が吉良邸に討ち入った翌年の元禄十六年に出た「赤穂義人録」の中で室鳩巣(むろきゅうそう)が浪士を義人と称賛してのちの臆測の域を出ない。
この鳩巣の論をうけて、やがて「忠臣蔵」として義士のイメージが定着してゆくのだが、現代の冷めた眼には、社長の短慮による失態で失業という大打撃をうけた社員たちが、会社の名誉のために命がけで社長の尻ぬぐいを行なったと映る。路頭に迷う元社員たちにしてみれば、せめて長矩社長がにっくき義央を討ち果たしておいて欲しかったろう。
江戸城中での刃傷事件は、これを含めて4つ数えられるが、相手を殺せなかったのは長矩だけだ。この未遂が赤穂藩士たちの悲運をつのらせる結果となった。
だが、そのお陰で後世に忠臣の名をほしいままにできたとは皮肉だ。一方、浪士を忠臣たらしめるための悪のレッテルを貼られ続ける義央こそ、同情に値しないだろうか。
所詮この事件は、長矩と義央の性格の違いに起因しているようだ。潔癖で、短気な加害者と、尊大で、傲慢な被害者の衝突であったろう。