この道一筋のまじめ人生

碁所役

碁を打ってお給金がもらえた。
こんなおいしい話ちょっとない

役職メモ◇

  1 江戸城に出仕し、碁の対局をする。全国の碁打ちを総括する
  2 朱印地300石、20石10人扶持(初代本因坊の役料)
  3 承応3年(1654)頃設置
  4 寺社奉行



烏鷺の争い、関ヶ原決戦


 古来、わが国には理非曲直をただすという意味の、「黒白をつける」「烏鷺(うろ)の争い」なる慣用句がある。囲碁から生まれたものに相違ない。
 天下取りという争いに明け暮れた武将は、多く囲碁を好んだ。なかんずく、名実共に天下を統一した徳川家康がこれを愛好したことは、『言経(ときつぐ)卿記』(山科言経の日記)などに明るい。
 秀吉存命中の天正年間(1573〜1591)末期、家康はしばしば上洛し、数カ月も滞在しては、ほとんど連日にわたって碁会を楽しんでいる。
 公卿・僧侶・豊臣の家臣など幅広い階層の者が、家康主催の宴席に続く碁会に招かれている。家康の意図は京の動静を探ることであったとしても、彼が碁を好んだことにかわりはない。
 この席には、すでに秀吉より囲碁の名人のお墨付きである「碁之法度可申付」の朱印を授かっていた初世本因坊(ほんいんぼう)・本因坊算砂(さんさ)も招かれるのが恒例となっていた。
 算砂についての詳述はしばらく置くことにして、文禄元年(1592)の文禄の役について語ることにする。
 この秀吉の朝鮮出兵により、まず海を渡ったのは、浅野長政・黒田孝高(よしたか)の両将であった。
 軍議のために三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉隆)が日本から派遣されてくると知らされた浅野と黒田は、碁盤を囲みながら三奉行の到来を待つことにした。
 碁好きの常として、打ち出すと、それこそ黒白のつくまでたとえ敵に包囲されても、盤前を離れようとはしないものらしい。浅野と黒田も例外ではない。やがて着到した石田が、さっそく軍議を開くよう促そうとも、二人は容易に耳を貸そうとはしなかった。
 再三の督促にも応じない二人の態度に憤然とした石田は、席を蹴った。帰国後、ことの次第をつぶさに、太閤殿下にぶちまけた。この石田の短慮を、浅野と黒田の息子、幸長、長政が恨んだという。
 以上が、頼山陽の『日本外史』に記された文禄の役に関するエピソードの概略である。
 この後、慶長5年(1600)、関ヶ原における一大決戦の幕が切って落とされるわけだが、このとき当然豊臣方(石田三成方)につくべき浅野幸長、黒田長政が、徳川家康に与して戦った。これは、幸長、長政両名の石田への恨みと怒りの表明とみる。
 この東西対抗戦の結果は、周知の通りである。
 もし、朝鮮の地において石田が短慮に走らず、浅野長政、黒田孝高両名の烏鷺の争いを興味深く見守るほどの碁好きであったならば、おそらく西軍に軍配が上がったろう。
 つまり、天下分け目の決戦は、すでに朝鮮での烏鷺遊びで決していたとは興味深い。
 結果論めくが、碁好きな東軍の将たる家康が、つかの間であれ碁を憎んだ西軍の将である三成を制したともいえる。

本因坊の起源


 さて、家康が上洛のたびに催した碁会に、名人として招かれていた本因坊に話を戻そう。
 日本の囲碁は、『古事記』や『万葉集』にその記載があるほど長い歴史をもっているが、16世紀の後半に至って目覚ましい進歩をみせる。
 それまでの囲碁は、碁盤の四隅の星にあらかじめ碁石を配置してから始めるいわゆる「置き碁」であったが、この16世紀後半に、現代と同じ「互先」が日本で始まった。
 この、置き石のない盤面に黒白交互に打ち進める「互先」というルールは、誰の考案かは定かではないが、囲碁4000年の歴史のなかでの大革命をもたらした。それもそのはず、新ルールによって、序盤戦の布石に大きな変化が生じたからである。本因坊の名称は、まさに、この「囲碁革命」の真っ只中において出現するのである。
 また、「囲碁革命」の起きた天正年間(1573〜1591)は、本能寺の変を挟み、織田信長から豊臣秀吉への政権交替が行われた時期と一致する。さすれば、新ルール「互先」は、現実の戦場での戦術に思いを馳せつつ、とある高名な武将の考案によるものだと考えても、あながち不当だとはいえまい。
 天正16年、秀吉は碁打ちの名手をかり集め、御前試合を開催した。このとき、鹿塩・利賢(利玄坊)・樹斎・山内正林・日海(にっかい)たちが互いに腕を競い、勝ち抜いて優勝を果たしたのは日海であった。
 この碁打ちの名手中の名手日海は、京都の日蓮宗寂光寺にある7つの塔頭(小寺院)のうちの一つ、本因坊を住処としていたところから、別名を本因坊算砂といった。彼は、この御前試合で優勝した結果、先に述べた「碁之法度可申付」の朱印を秀吉より授かったのである。
 文禄年間(1592〜1595)に入ると、碁打ちたちはかなり多忙になってくる。16世紀末から17世紀初頭における囲碁史の資料として有力な手掛かりとなる『言経卿記』によると、碁打ちたちは、多いときには1カ月の間に11日も召し出されていることが分かる。
 この事実は、年を追うごとに囲碁が社交の有力な手段として用いられ、碁会ではその腕前を披露する機会が増加してきたことを物語っている。かくして、囲碁は次第に専業化への道を歩み始める。
 本因坊算砂は、囲碁のみならず将棋も能くし、慶長10年には江戸城で、慶長13年には大坂城の豊臣秀頼の前で、宗桂と将棋の対局を行なっている。これは、本因坊算砂が完全に専業の棋士として活動していたことを裏付けている。

碁所の誕生


 慶長17年、家康は「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」として、碁打ちと将棋指しの年俸を決めた。筆頭者である本因坊算砂のほか、利玄坊・宗桂には50石5人扶持。道碩に50石、六蔵に30石、春知・算碩・仙重に20石の俸禄が与えられた。
 家康に召し出されるようになってから20年という歳月が経過した後、やっと手にした俸給である。
 猿能楽の金春安照の500石、絵師の狩野探幽、狩野常信の200石、連歌師の里村紹巴の100石などといった他の遊芸師たちの俸禄と比較すれば、碁打ちと将棋指しの評価はさほど高いものとはいえない。しかし、囲碁・将棋が遊芸として江戸幕府によって認められた意義こそ大きい。これもひとえに、筆頭者である本因坊算砂の棋力の功績のたまものであろう。
 慶長17年に扶持を受けた碁打ちたちのうち、相続をして家を継いだのは、本因坊家・安井家(六蔵のちの算哲)、井上家(道碩)、林家(利玄坊)の四家で、囲碁をもって幕府に仕える囲碁の家元となった。
 江戸幕府の組織図を見ると、「碁所(ごどころ)」は将棋所や御連歌師らと並んで寺社奉行の支配下にある。
 もともと「碁所」というのは、秀吉の時代に本因坊算砂が創始したもので、それを家康が継承し、算砂を初代の碁所の司とし、朱印地300石と20石10人扶持を与えたのである。しかし、江戸幕府の誕生と同時に正式の職制としての碁所が存在したのではない。
 碁所の設置時期については諸説あるが、少なくとも寺社奉行が設置された寛永12年(1635)以降であり、碁打ち衆が京から江戸へ移住した承応3年(1654)直後とするのが妥当のようである。

碁所の役割


 碁打ち衆への「家屋敷拝領の覚書」などをみると、本印坊家が常に筆頭とは限らないことが分かる。慶長17年の「御扶持方給候事」の時点で筆頭者であった本印坊算砂が、先例により重んじられていたに過ぎなかったようだ。
 つまり、先に述べた四家元といえども、時代により伎倆(ぎりょう)は異なるわけで、常に本印坊家が碁所の司でありえたわけではない。神技の持ち主と目される名人(9段)の域に達すれば、幕府から碁所の地位が与えられ、家元四家の上に立って号令できることとなる。
 よって、碁所という最高栄誉を勝ち取らんがために、四家、なかでも本印坊・安井・井上の三家の間で激しい烏鷺の争いが展開されたのである。
 たとえば、第二世安井算知と第三世本因坊道悦の、寛文8年(1668)から7年間続いた対局などはその最たるものであろう。
 碁打ち衆の頂点の地位にある碁所は、おおよそ次のような役割を担っていた。

1 御城碁(江戸城に出仕しての碁の対局)に参加する碁打ち衆を代表する。

2 強弱による碁打ちの全国的な統一した基準を定め、棋力を認定し、免許状を発行する(これは、碁所または宗家の重要な収入源となった)。

 当時、最高位は名人(9段)、次いで準神技級の準名人が8段、その下位の7段を上手と称し、人間技での最高位とされた。

本因坊、その名跡は…


 本因坊家は、他の三宗家とともに徳川幕府瓦解の日まで、約200年にわたって扶持を受領し、その間5人の名人碁所を生んでいる。
 この後、大正13年(1924)、日本棋院が創立され、本因坊家は伝統的な段位授与権を譲り渡した。これにより、家元制度は完全に消滅してしまった。
 そして、昭和14年(1939)に第21代本因坊秀哉(しゅうさい)が引退するとき、本因坊の名称を日本棋院に寄贈した。以後、「本因坊」はタイトル戦の名称として現在も残っている。

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今でこそ新聞の片隅でしか見かけない碁ですが、
当時では、雌雄を決する天下分け目の
戦いにまで影響をおよぼすものだった!
これにはビックリです。

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(管理人)

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