第5回 2005年1月17日(月)

満福寺


 稲村ケ崎駅へ戻り、次なる下車駅は腰越(こしごえ)です。
 つい先だってから始まったNHK大河ドラマ『義経』にちなんで、源義経ゆかりの満福寺を訪ねましょう。腰越駅前の案内板にしたがって、ほんの5分。江ノ電が通過した踏切の遮断機があがると、目の前が山門へとつづく石段です。
 山門わきに「義経腰越状旧跡満福寺」の碑がございます。
 山号は龍護山、開山は行基
(ぎょうき)さんだと伝わります。奈良時代のこと、関東地方に疫病が流行したため、行基さんがこの風光明媚の地においでになり、薬師三尊を彫り祈念なさいますと、まもなく疫病がおさまりました。そこで仏の功徳をたたえて建立したのが真言宗満福寺だと伝わります。

 本堂に上がりますと、そこはもう「義経と静・弁慶」の世界です。義経の生涯を、表裏32面ものふすまに鎌倉彫の技法を用いた漆画で描かれています。義経と静との別れの場面。弁慶の壮絶な最期のシーンなど、さながら、大河ドラマを凝縮したかのような感動をおぼえます。
 例の「腰越状」はガラスばりの額に納まっております。
 義経が兄・頼朝に出した嘆願状ですが、それがなぜ、ここに残されたかと言いますと、なんでも、正式に差し出したものの下書きだったからだそうでございます。
 一の谷、屋島、そして壇ノ浦でと、連戦連勝し、ついに宿敵平家を滅ぼした義経、よろこび勇んで兄頼朝の待つ鎌倉へ凱旋してまいります。ところが、あにはからんや。頼朝から鎌倉入りを拒絶されてしまい、やむなく満福寺に留まったのです。
 在京中の義経が、頼朝の許しを得ずに後白河法皇から官位を授かったことが原因だったのです。頼朝は、かねがね自分の推薦なしで官位を受けることを禁止していたのです。
 義経にしてみれば、源氏の名誉になることと思い、つい法王の言に従ったのでしょうが、「これは法王の策略だよ。平氏と源氏、さらに源氏同士を戦わせ、武家の勢力を削ぐことを狙ったものにすぎない」というのは、三宅孝太郎の説ですが、はたして大河ドラマでは、どう描かれることになるのか見ものでございます。
「腰越状」は、頼朝の信望のあつかった公文所別当の大江広元あてになっています。頼朝とは異母兄弟だったために幼少時から味わった苦労、平氏討滅で果たした自らの功績、兄に対してひとかけらの逆心もないことを切々と述べ、兄の勘気を解く労を広元にとってほしいと懇願していて、読む者の胸を打ちます。
 本堂と棟つづきの客殿に入りますと、ここにも鎌倉彫による彫刻作品がずらり。なかでも、床の間に並んだ羅漢さまたちの表情が声となって聞こえてくるようです。
「よく来てくれました、柴右衛門どの」
 と、両手をあげて歓迎してくださる、底抜けに明るい性格らしい羅漢さまには感動をおぼえましてございます。
(第6回に続きます)