「演劇界」1995(平成7年)9月号(演劇出版社)
「幕間随筆」というコラムに掲載

『黒塚』にまつわる
夏の夜咄(よばなし)

作家・三宅孝太郎の原風景。

 50年前の夏、正確に言えば昭和20年7月9日の夜更け、私の故郷・堺の町は消えた。B29爆撃機による空襲で、灰と化したのである。
 当時小学校(国民学校)2年生だった私は、堺市内から3里ばかり隔てた金岡という村の国民学校の校舎へ集団疎開していた。5年生の次姉も一緒だった。
 その夜も、例によって、教室の床(ゆか)に床(とこ)をのべ、蚊帳を吊り終わると、めいめいの寝具の上に正座した。故郷に向かって「おやすみなさい」と合唱するためである。かすかな明かり(多分、ローソクの灯であったろう)が消されると、誰が放ったのか何匹もの蛍が蚊帳中に明滅しはじめた。遥拝によって里心のおきた子供の目には、蛍の光芒は余りにも切なく映る。女子グループの蚊帳から、すすり泣く声がもれはじめた。
 ほどなく、「あッ、堺が燃えてる!」という男子の声が、あたりを領していた。私たちは、一斉に蚊帳をくぐり抜け、窓辺にとりついた。床をのべる頃には蛍が飛びかっていただけの、どこまでも続く畑地の闇の奥の燃え盛る火を見た。音もなく闇空に発した光が尾を曳き落ちたと見る間に、地平を這うようにして燃え広がる。まさに燎原の火であった。
 これこそ、焼夷爆弾による故郷消失の瞬間にほかならなかったのである。
 翌日、真夏の太陽は、まるで朧月のように天空にかかっていた。それを直視する人の目を射ぬく力さえ失せていた。丁度、日食観測のとき、煤(すす)けさせたガラス板を通して眺めるのと同じ理屈だろう。空は一面、煤けたフィルターで覆われていたのである。3里以上も隔てられた私たちの居場所でさえ、こうだったのだ。昨夜の空襲の激しさのほどが知れる。
 まぶしくもない太陽が傾きはじめた頃になって、惨めな姿の母が訪ねてきた。もともと慈母観音のように優しい母であったが、いまは見るかげもなかった。
 一晩中、長男(私の兄)と火の海のなかを逃げ惑った。そして、今早朝から、昨夜一足先に避難した祖父と長姉を捜しまわったが不明。兄は、今も焼け跡を経巡っているという。
 私と次姉は、母の焼けただれたモンペにとりすがり、その場に泣き崩れたものである。
 それから十数年の時が流れた。
 大阪新歌舞伎座で、芝居好きな母とともに、二代目市川猿之助と団子(現・三代目猿之助)による『黒塚』を初めて観た。
 阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りの晴れた鬼女が、童女の頃を忍び無心に踊る。しかし、背信にあい再び鬼女に戻り、やがて折伏(しゃくぶく)されるという舞踊劇。猿之助扮する鬼女・岩手が長唄の名調子にのって踊るさまを見るうち、あの戦災の翌日目にした母の姿が思い起こされてならなかった。
 あの日あの時の母は鬼と化していなかったろうか。黒髪は焼けちぢれ、灼熱地獄を見てきたその目は真っ赤に膿(う)んでいた。わが娘と義父を奪った劫火(戦争)に対する怒り・怨念の化身ではなかったろうか。人は時として鬼になることを実感し、“情念”という観念が、私の心の深奥に焼きつけられた瞬間であった。
 思わず隣席を窺った。慈母観音然とした母は、名優の芸にひたすら酔いしれていた。
 今年7月、折しも、東京歌舞伎座で三代目猿之助演ずる『黒塚』を観て、隔世の感に打たれると同時に、戦後50年の越し方をしみじみと思いださざるを得なかった。
 数多(あまた)の被爆者に対する鎮魂詩劇として、『黒塚』が毎年この時期に上演され続けることを心から望みたい。
 ちなみに、わが慈母観音様は86歳、今なお健在。来年は、ぜひとも一緒に観劇し、感激を分かち合いたいものである。
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「陸奥の安達ヶ原の黒塚に
鬼こもれりと聞くはまことか」
という平兼盛の歌とともに
知られる『黒塚』。
市川猿之助大歌舞伎などで、
今もたびたび上演されているようです。

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(管理人)

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