隠岐騒動:慶応4年(1868)(9月に明治と改元)3月19日、日本海に浮かぶ離島隠岐(幕領で松江藩の預かり地)では、尊攘派の志士に率いられた島民たちが松江藩の郡代を島から退去させ、80日間の自治をおこなった。この期を中心にした松江藩と隠岐島民との抗争を隠岐騒動(雲藩騒動)という。王政復古の大号令が発せられた翌年のことである。

日本海の離島・隠岐に
独立国が生まれた。
郡代を追放し、
見事な自治組織を作った
島民たちのつかのまの夢。



勤王の島・島後


 隠岐(おき)は島根半島の北東44〜80キロメートル隔たった群島の総称で、二島に大別される。半島に近い知夫里(ちふり)島・中之島・西島を島前(とうぜん)、東北方の大島を島後(とうご)という。
 この幕府直轄地隠岐を預かった松江藩は寛永15年(1638)、松平出羽守直政(家康の孫)が信濃松本より入封して10代定安にいたった親藩である。
 幕末(定安の代)、黒船の日本近海への出没が頻々となり、沿岸諸藩の例にもれず松江藩でも、文久2年(1862)、英国製鉄艦(一番八雲丸)と米国製木艦(二番八雲丸)を購入し、海防に備えた。
 翌年には、隠岐警備のため、従来の陣屋(郡代屋敷)のほかに島後西郷に御番屋と調練場を設け、島民による農兵組織を設置。足軽100余人を駐屯させ、藩士錦織録蔵(にしきおりろくぞう)指揮のもとに練兵。もし、黒船が西郷湊に入港、もしくは、いずれかの沖合に停泊した場合、各村ごとに半鐘・太鼓で知らせ、農兵は陣屋へ注進のうえ、所定の場所に集合のこと。これが一朝有事の際の農兵(480人)出陣の手筈である。
 これより先の文久元年2月、鳥取藩に松江藩を援けて隠岐の防禦を講ずべしとの朝命が下っていた。3年後の元治元年(1864)4月、朝命をうけた鳥取藩の儒官景山龍蔵(かげやまりゅうぞう)が西郷に入り、有事に備えんがため海岸を調査しつつ犬来(いぬきた)村の沿岸を巡っていた。折しも、黒船が1隻、突如西郷湊に入ってきた。
 代官枝元喜左衛門は、なすすべもなく逡巡しているところへ景山が到来したため、景山と共に艦内に入った。しかし、引き揚げるに及んで帯刀を置き忘れるという失態を演じるほどの狼狽ぶりを示す。黒船は6時間ばかりで西郷湊を去ったが、その間の代官の無能ぶりと、その後の鳥取・松江両藩による無策をみるに及び、島民は呆れ果てるばかりか、悲憤慷慨した。
 もっともこの時期には、物価高騰と重税にあえぐ農民たちにとって農兵どころではなく、所々で一揆が頻発していた。かたや在島の松江藩士たちは防備の大任を忘れて放蕩遊惰にながれ、藩兵は漸次隠岐を引き揚げていたのである。
 農兵の組織化に失敗した松江藩は、慶応2年(1866)島の身元確かな財産家の子弟から30人を選び、これに扶持を与え「新農兵」を再組織し、鉄砲操縦の技術を習得させ海防策とした。この施策は、海防のいっそうの強化を名目とするものの、実は米価高騰の折から農民を農事に励ませ納税にいそしませるため、武芸を禁じることが狙いであった。
 武芸は新農兵に任せ、旧農兵には武芸差し止め−−この藩の身勝手な仕打ちに島民の忿懣は極に達するのである。
 元来島民は、ことに島後で、勤王の念が深く、遠く後鳥羽・後醍醐両帝の遷幽に源を発しているためか、国学・道学を究めるものが多かった。
 幕末期、島民の勤王思想の根幹的存在は、島後出身の中沼了三(なかぬまりょうぞう)であった。彼はのちに明治天皇の侍講となるほどの人物で、すでに京にあって一門をなし、大いに勤王の志士たちと交わっていた。
 京の中沼に師事していた十津川郷士が文武館を創設し、ついに禁衛軍(勤王軍)となったという風聞が隠岐に伝わるや、島後の憂国の志士にして、中沼の弟子である中西毅男(なかにしはたお)は、島後の加茂村庄屋井上甃介と「雲藩(松江藩)の因循にして信頼するに足らざる」を語り合い、島民自らの手で尊王攘夷という、文武両道を研鑽すべき拠点としての文武館設立を松江藩に嘆願することに決した。
 ときに慶応3年5月、島後の同志73名の連署による嘆願書が新任の郡代山郡宇右衛門(やまごおりうえもん)に提出された。だが、3度に及ぶ嘆願はいずれもすげなく却下された。

京への直訴


 翌慶応4年2月13日の払暁、業を煮やした同志11名が、京へ直訴せんとして脱走を企てる。しかし、石州浜田外ノ浦(島根県浜田市)で長州藩の取り調べを受け、すでに徳川慶喜追討令の下ったことを聞かされ、やむなく退却する。
 帰島した彼らは、隠岐がすでに天朝御料となった今、郡代を追放すべきだと同志たちに檄を飛ばす。また、十数日後、山陰道鎮撫使総監西園寺公望(さいおんじきんもち)が、親藩であり進退不明確な松江藩を取り調べるため下向。このとき、総監から隠岐国公聞役(庄屋)方へと表記された書状が出されたが、郡代が開封したことが露見する。この一事が、郡代追放の気運に油を注ぐ結果となる。
 3月15日、上西村の庄屋横地官三郎宅などで島後庄屋職が会合、鎮撫使からの御用状を開封した郡代の罪を追及すべく激論。藩の支配を脱し、天朝の直支配を望む請願運動主張派と郡代追放強硬派に分かれるが、やがて、郡代追放で意見の一致をみる。島前の庄屋たちにも意を一つにすべく要請するが、島後の過激行為を嫌い、後難をおそれた島前の庄屋たちは多く松江へ逃亡した。尊攘過激派の中心は島後の庄屋と神官たちであり、自らを「正義党」と称し、逃亡した者たちを「出雲党」または「因循党」と嘲り呼んだ。
 翌16日、再度正義党同志が横地宅で集会したときには、同志の数は100名にならんとしていた。席上、少壮過激派は郡代追放ではあきたらず、郡代の首を斬るべしと唱え、これに逆らう者も許さずと抜刀しかねない一幕もあった。
 刀に手を掛けたのは、布施(ふせ)村庄屋の船田和一郎と原田村の長谷川貫一郎。これを抑え郡代放逐に衆議一決させたのは、一宮大宮司の忌部(いんべ)正弘と井上甃介である。激する者、抑える側、共にこの2月京へ直訴のため脱走を図った仲間だ。
 郡代放逐の決行は、3月19日と決まった。その前夜、横地宅で最後の打ち合わせを終えた頃、郡代配下の渡辺紋七(もんしち)という点検役が島後各村を巡回し、同志の挙動を偵察中という知らせがもたらされ、緊張がよぎる。さっとその場を立ったのは中西毅男だ。30余人が彼に従い、密偵投宿中の原田村年寄宅へ急行。渡辺を捕え、横地宅の籾蔵(もみぐら)に繋ぎおいた。
 夜明けを待って横地宅を出発するとき、同志島民の数なんと3000余人。おのおの、鳶口、竹槍などを携え、整然と西郷に入り、調練場に陣をしいた。総指揮役は忌部正弘、応接役横地官三郎、書記役井上甃介である。
 まず、新陣屋に対し、「これより役所へ郡代退去の掛け合いに赴くが、手出し無用に願いたい。万一、兵器を差し向けることあらば、残らず討ち取るものとする。なお、天朝御料となった今、早々にこの地を退去されよ」という意味の書状を遣わせた。この時、新陣屋に詰めていた松江藩吏は数名にすぎず、いずれも同志の挙を拱手傍観するばかりであった。
 ついで、郡代山郡宛に退去を迫る書状(14カ条からなる罪状書)を遣わせた。
 陣屋には、隠岐不穏の動きを知り山郡郡代に加勢すべく松江藩より派遣された鈴村祐平という相談役がいたが、彼は、「農兵のごときに後ろを見せてなるものか」とばかり大身の鑓の鞘をはらって玄関に突進せんとする山郡の袂をとらえ、ひとまず引き揚げ再挙を図るべしと諭した。
 さすがの山郡も、林立する竹槍の数と島民の喧噪を知るや己れの愚を悟った。
 結局、郡代一行は同志の指示通り屈伏状を差し出し、藩御用船観音丸に乗り移り、島を離れていった。
 陣屋を占拠し、同志島民の歓喜さめやらぬうちに、井上の筆になる檄が飛んだ。

−−(略)ココニ開明ヲトゲ、同志イタスニヲイテハ、是マデ鄙賤ヲ唱ヒ、因循荀且イタシ居リ候モノモ、今日ヨリ、皇国ノ民タルベシ。(中略)鄙賤ノモノニ於イテモ此機ヲ察シ、二心ヲ不抱、皇国ノ民タル名分ヲ不失コト第一ニ候。此末文武ヲハゲミ、攘夷ノ御布告可相待モノ也。

総会所成る


 ついに、藩の支配を脱し、公務を行なう総会所を陣屋に設けての自治の始まりである。文事・軍事方、撃剣・武具方、兵糧方など、見事な組織が完成。郡代舎宅あとには立教館を設け、中村淡斎(たんさい/毅男の父)をして大学を講ぜしめた。
 かくして自治組織づくりには成功したものの、肝心の朝廷からのお墨付きを得ていない。そこで、陳情第一弾として、4月1日、中西毅男他2名が上京することとなる。頼るは中沼了三であり、西園寺公望の参謀、柴捨蔵(しばすてぞう)であった。ところが、驚いたことに、京で出会った松江藩士と島前の庄屋たちの口から、「此度、隠岐のことは雲藩(松江藩)のお預かりに定まった」と聞かされる。
 急ぎ、その真意を柴に糺したが、雲藩へ預ける噂はあるにはあったが、その儀は取り止めになったという。「しからば、事後は?」の問いに、柴は、すべては審議中で未だ結論は出ていないと言うばかりで要領を得ない。
 同志の納得のいく回答の得られぬまま、閏4月をはさんで、約2カ月が過ぎていた。
 しかし実際は、太政官から松江藩宛に、旧幕時代から預かって隠岐は、当分の間藩が取り締まりをすべきだという書状が渡っていたのである。しかも、取り締まりは厳重にし、農兵共が役所へ不法の所業あれば、厳に取り締まることと併記されていた。
 閏4月27日から5月9日までに、松江藩士が続々と西郷に到着。陣屋を包囲し、再三、島民に退去を迫った。島民は京よりの直接の達しを待ち侘びているのだ。太政官の書状を示されようと、藩の指揮は絶対に受けないと明言し、総会所の守りを一層固めた。
 小競り合いのつづくうち、突如藩兵が発砲。これを潮に、藩兵は総会所に乱入。藩兵の銃器を前に、島民の刀剣竹槍は敵ではない。たちまちにして陣屋は奪回された。島民の死傷者は22名、捕縛入牢者19名を数えた。
 かくて、80日間の自治は泡沫のごとく消え去った。思えばこの日数は、藩の因循さと、姑息な新政府の態度が、血気盛んな正義党に与えた間隙であり、農民にとっては、長い旧領主による酷税からの解放を実現しえた瞬時の夢であった。
 数カ月後に明治と改元される状況下で、維新政府が島民の期待を裏切る行為さえとらなければ、犠牲者は出さずに済んだものをと悔やまれる。
 事件後、鳥取・長州・薩摩三藩の介入により、松江藩は兵を撤退させ、監察使の取り調べは同志たちの有利に進んだ。
 やがて6月、総会所が同志たち自らの手で拵えた役割構成とほとんど変わらず復活したことは、犠牲者の魂を大いに慰めたことであろう。

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現状に義憤を抱き、独立を企てるという話には
誰もが胸を熱くするのではないでしょうか。
いずれ敗れるとはわかっていても……。

今も、世界の各地で、
こうした戦いが繰り広げられています。

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(管理人)

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