第2回 2004年1月1日(木)
除夜の鐘と初散歩


 この十数年、除夜の鐘は、鎌倉五山の一つ、浄智寺でつくことにきめている。鐘楼といえば、たいていの場合、いかめしい感じがするものだが、浄智寺のは趣を異にする。これまた、いかめしさなど微塵もない、小ぶりな楼門の二階に鐘はある。一人ずつ登っていく狭いはしご段もいい。まるで、茶室におけるにじり口の役割に似ていて、これから清浄の場へ踏み入らせてもらうのだという気にさせられる。思えば、ここ浄智寺も禅刹である。茶禅一味の趣向なのであろうか。
 鐘をつきおわった者には、熱い甘酒を振る舞ってくれるのも、うれしい。境内から仰ぎ見る天空には、いつかプラネタリウムで観たと同じ冬の星座、オリオン座などが、鐘の音にふるえているかのように輝いているのも、いちだんと情趣をそそる。
 数年前までは、真っ暗な山道を源氏山から天柱峯を経て、懐中電灯の明かりだけをたよりに歩いてきたものだが、今では横着なものだ。交通規制にかかる前に車でくるようになった。一度味わった楽な方法は、容易には変えられない。
 そんな脆弱な自分に対する自戒をこめて、ゴーンと鐘をつくことになるわけである。

 明ければ新春、初歩き。
 ひとまず鶴岡八幡宮へ。みちすがら、銭洗弁天へ立ち寄ってみる。今年は、例年以上のにぎわい。
 賽銭箱に投げ入れているのは、たしかに銭のようだが、懸命に洗っているのは万札のほうだ。数年前につくった駄句、「賽銭にあげないほうは、よく洗い」が、にわかに蘇る。
 しかし一説によれば、札を洗っても、ご利益はないらしい。「銭洗い」というではないか。そして、洗ったものは、すぐに使えともいう。心を込めて洗った万札を、すぐに使わせるための方便かもしれない。
 それはともかくとして、「おみくじ」の繁盛ぶりが目を引く。しかも、おみくじファンは若者に多いのには驚かされる。不測な未来を案じる気持ちが、そうさせるのであろう。もう、とっくに先の見えてしまった年寄りは、見向きもしないのも、うなずける。
 鎌倉駅から八幡宮にかけての沿道の人の波は、相変わらずすごい。
 そんな人ごみにまぎれて、「信ぜよ、キリストを」のプラカードを立てて、拡声器でがなりたてている風景ほど、おぞましいものはない。
「日本人よ、偶像崇拝を捨てて、キリスト教徒たれ」と宣伝しているわけだが、大きなお世話である。
 日本人は無信心だと、よく言われる。しかし、この神社仏閣を目指す群衆はどうだ。みごとな信仰心あつき者たちではないのか。たしかに、それほど深い信仰心などないだろう。一年一度の、一種の習慣的文化であろう。だからと言って、その行為を愚劣だと決めつけられようか。
 もし、正月だというのに、誰一人、初詣もしない光景を思い描くだけでも、身のけがよだつ。せめて正月だけでも、清浄でありたいと願う心があるうちは、「この国は、まだ大丈夫だ」と思わせてくれるのである。