夏休みを利用して、甥(おい)の息子(愛称コッチ。小学5年生)が、ひとりで大阪からやってくることになった。
新大阪から新横浜まで、東海道新幹線を利用しての初めての長距離、単身旅行だ。「往復とも途中下車することになるので、ひょっとして居眠りしていて寝過してしまうのでは」というのが、親たちのいちばんの心配ごとらしい。
到着予定の30分前に新横浜駅のホームに着いた。
(ひょっとして眠りこけてしまっていたら、どうしよう?)
なまじ時間に余裕があると、かえって心配がつのるものだ。
久しぶりに見る新横浜駅前の光景、すっかり様変わりしたものだと眺めやるうちに、視線を一ブロック先のベンチにとどめたとき、一人の初老の婦人と目が合った。彼女のほうから小さく会釈された。むろん見知らぬ人だが、口もとに笑みを浮かべているではないか。
思わず会釈をしかえしながら気づいた。彼女が手にしている白い紙片だ。おそらく、到着予定時刻や列車番号を記したものであろう。こちらも同じものを握りしめていることに、彼女のほうが先に察したのであろう。目的をひとしくする者同士に違いない。
声をかけるには距離がありすぎる。以心伝心も捨てたものではない、などと思っているうちに東京行きが到着してきた。
「おじちゃーん」
元気な声は、コッチのものだ。
(新横浜で降りるんだよ)と、さんざん言い聞かされてきたのだろう。寝過ごさず、失敗せずに目的地に到着できたという安堵感が、その表情と声にあふれている。
デイパックを背負った少年は、まるで愛犬が飼い主に飛びかかるようにして、わたしの胸めがけて飛び込んできた。
コッチの肩越しには、さきほどの婦人の、やはり小学生らしい少女の手をひいている姿があった。
(おたがいに、よかったですね)
言葉にする必要などない。今度は、こちらから微笑みかければよかった。婦人の顔にも笑みがこぼれた。
コッチの親離れ冒険は、たった3日間の予定だが、とてもすがすがしいスタートとなった。8月9日のことである。
JRで大船駅へ。湘南モノレールに乗り換え、江の島駅をめざす。レールのない懸架式だから、カーブするたびに頭のほうからひねられる気分なのが気に入ったらしい。コッチはオーバーなシグサでおどけてみせた。
江の島へ渡ってみるか、それともつい最近リニューアル・オープンして連日盛況だと聞く「新江の島水族館」にするか。コッチは迷わず後者を選んだ。
なるほど、以前よりも、海と江の島の眺望がきくようになった。
(ひとつも見落としてなるもんか)
コッチの意気込みはすごい。つぎつぎに展開される水槽を眺める目に、さきほどまで緊張をしいられた旅の疲れなどミジンもない。
いちばんのお気に入りは、体長30センチほどのサメを自由にさわらせてくれるタツチング・プールだ。
「ほんまや、サメはサメ肌や」
サメ肌を実感したようだ。少年の大阪弁が、まわりに明るい笑いを誘った。
なにしろ、生きもの大好き少年だ。我が家に着いてからも、周囲のセミしぐれの誘惑には勝てず、さっそく裏山へ虫取りに。セミやバッタだけではものたりない。皮をむいたリンゴにワインをしたたらせたものをネットに詰め、下見ずみの樹木の幹に仕掛ける。カブト虫やクワガタを採集する方法らしい。