第6回 2004年8月9日(月)〜11日(水)


夏の贈りもの


 夏休みを利用して、甥(おい)
の息子(愛称コッチ。小学5年生)が、ひとりで大阪からやってくることになった。
 新大阪から新横浜まで、東海道新幹線を利用しての初めての長距離、単身旅行だ。「往復とも途中下車することになるので、ひょっとして居眠りしていて寝過してしまうのでは」というのが、親たちのいちばんの心配ごとらしい。
 到着予定の30分前に新横浜駅のホームに着いた。
(ひょっとして眠りこけてしまっていたら、どうしよう?)
 なまじ時間に余裕があると、かえって心配がつのるものだ。
 久しぶりに見る新横浜駅前の光景、すっかり様変わりしたものだと眺めやるうちに、視線を一ブロック先のベンチにとどめたとき、一人の初老の婦人と目が合った。彼女のほうから小さく会釈された。むろん見知らぬ人だが、口もとに笑みを浮かべているではないか。
 思わず会釈をしかえしながら気づいた。彼女が手にしている白い紙片だ。おそらく、到着予定時刻や列車番号を記したものであろう。こちらも同じものを握りしめていることに、彼女のほうが先に察したのであろう。目的をひとしくする者同士に違いない。
 声をかけるには距離がありすぎる。以心伝心も捨てたものではない、などと思っているうちに東京行きが到着してきた。
「おじちゃーん」
 元気な声は、コッチのものだ。
(新横浜で降りるんだよ)と、さんざん言い聞かされてきたのだろう。寝過ごさず、失敗せずに目的地に到着できたという安堵感が、その表情と声にあふれている。
 デイパックを背負った少年は、まるで愛犬が飼い主に飛びかかるようにして、わたしの胸めがけて飛び込んできた。
 コッチの肩越しには、さきほどの婦人の、やはり小学生らしい少女の手をひいている姿があった。
(おたがいに、よかったですね)
 言葉にする必要などない。今度は、こちらから微笑みかければよかった。婦人の顔にも笑みがこぼれた。

 コッチの親離れ冒険は、たった3日間の予定だが、とてもすがすがしいスタートとなった。8月9日のことである。
 JRで大船駅へ。湘南モノレールに乗り換え、江の島駅をめざす。レールのない懸架式だから、カーブするたびに頭のほうからひねられる気分なのが気に入ったらしい。コッチはオーバーなシグサでおどけてみせた。
 江の島へ渡ってみるか、それともつい最近リニューアル・オープンして連日盛況だと聞く「新江の島水族館」にするか。コッチは迷わず後者を選んだ。
 なるほど、以前よりも、海と江の島の眺望がきくようになった。
(ひとつも見落としてなるもんか)
 コッチの意気込みはすごい。つぎつぎに展開される水槽を眺める目に、さきほどまで緊張をしいられた旅の疲れなどミジンもない。
 いちばんのお気に入りは、体長30センチほどのサメを自由にさわらせてくれるタツチング・プールだ。
「ほんまや、サメはサメ肌や」
 サメ肌を実感したようだ。少年の大阪弁が、まわりに明るい笑いを誘った。
 なにしろ、生きもの大好き少年だ。我が家に着いてからも、周囲のセミしぐれの誘惑には勝てず、さっそく裏山へ虫取りに。セミやバッタだけではものたりない。皮をむいたリンゴにワインをしたたらせたものをネットに詰め、下見ずみの樹木の幹に仕掛ける。カブト虫やクワガタを採集する方法らしい。

 翌朝、6時に起こされる。きのう仕掛けたワナを見に行くためだ。コッチならずとも、仕掛けにカブトやクワガタが群れている様子を思い描くだけで、こちらもウキウキしてくる。
 だが仕掛けには、アリンコいっぴき、たかってはいなかった。努力しても、思うようにならないこともある、これも自然が教えてくれた教訓か。
 虫取りはべつにしても、できる限り鎌倉らしいところを見せてやりたくなる。 
 近いところでは、源氏山から銭洗弁天。銭洗の境内に行けば、生きもの好きの少年の希望を満たしてやれそうだ。予想どおり、タイワンリスが出迎えてくれた。
 住民や観光客が「かわいい」と言ってはエサを与えつづけたせいで、繁殖しすぎ、樹木をかじり枯れさせるなどの被害が増大。捕獲したり、餌付けをしない運動が効果を発揮したために、めっきり、その数が減少してしまった。
 この時期、やせっぽちの子リスでも、少年を夢中にさせるに足る魅力は持ち合わせていてくれた。秋から冬にかけて、ふっくらとした肢体で枝から枝へと飛びまわる様子を見せてやりたいと思いもする。リスと人間が、うまく共存できる方法はないものだろうか。
 そのほか、コッチが満悦したことを列挙しておこう。
 狭い家並みの間を走り抜ける江ノ電に乗ったとき。長谷の大仏で、鎌倉と奈良の大仏は指の組み方が異なることを教えてあげたとき。鶴岡八幡宮の源氏池で大きな亀をつかみ上げたときなどである。
 この期間中のメインイベントは花火大会だ。鎌倉の海岸、由比ガ浜沖合いで打ち上げられる水上花火は、本数では全国的に誇れるものではないが、その風趣においては他の追随をゆるさない。逗子のあたりから、材木座海岸、由比ガ浜、稲村ガ崎にいたるまでの砂浜が観客席、ステージは暗黒の海上だ。うずめつくした観客数は10万を下るまい。
 八幡宮から由比ガ浜に通じる若宮大路は、開演予定の1時間以上も前だというのに、はやくも雑踏と化していた。
「由比ガ浜は満員です。若干の余裕のある材木座海岸にお回りください」
 スピーカーを通して、警察官ががなりたてている。
 勝手知った裏道をへて材木座海岸へ。幸運にも、指定席のような場所に陣取ることができた。
 やがて、真正面の海上から大輪の花火が打ち上げられた。海底から砂浜へ伝わり、お尻の下から突き上げてくるような爆発の振動は、夜空に咲く花の美しさと相まって、ぞくぞく感をいやましにしてくれる。
 コッチは、地響きとともに頭上いっばいに花が咲くたびに手をたたき、他の観衆に負けぬほどの歓声をあげた。
 3日間は、花火の饗宴に似て、あっという間にすぎてしまった。今度は新横浜駅で見送る日となった。
 少年の満足度は、出迎えたときよりも数段日焼けした顔色にあらわれていた。
 コッチは、おもむろに腰のポーチから1枚の紙を取り出した。見ると、帰りの列車の途中停車駅名と時刻が書かれていた。母親が、たんせいこめて書き記したものだ。京都駅の部分には、こう書かれていた。
「次が新大阪ですよ。そろそろ降りる準備をしましょう」
 これがわが子を思う親の真の愛情だ。少なからず、感動をおぼえた。近ごろの親は、自分の心配を少しでも減らすために、子どもにケータイを持たせてコントロールしようとする者が多いと聞く。
 子どもにとって、ケータイなど不必要なのだ。ケータイの不携帯、バンザイである。そんなものに頼らず、紙片に愛情をこめてくれたコッチの母親に感謝したい。
 思えば数日前、見知らぬ婦人と、同じような紙片を持ちあわせたことで心が通じ合えたではないか。それと合い通じる、そこはかとした温かさを感じさせてくれた。
 楽しく思い出にのこるような感動をコッチに与えてあげたいと考えつづけてきたものだが、実のところは、もっともすがすがしい感動を与えてもらったのは、わたしのほうかも知れない。
「もう1泊ぐらい、したかった。今度は、春休みに来てみたい」
 すっかり自信にみちた少年を乗せた「ひかり号」は、定刻どおり、西に向かって走りだしていた。(おわり)