赤穂事件に先立つこと2年、佐賀・鍋島藩の所領深堀で起きた討ち入り騒動。何の関連もないはずの2つの事件を四十七番目の赤穂義士が結びつけた。討ち入り後、姿を消した男、寺坂吉右衛門。西国のさいはて五島列島に眠る吉右衛門の墓が奏でる、2つの騒動へのレクイエム。


寺坂吉右衛門の第三の墓


 長崎県五島列島の一つに、久賀(ひさか)島がある。この島に恵剣(えけん)寺と呼ばれる小さなお堂がある。その裏手に、累代の住職の墓碑にまじって唯一御影石の墓石がある。
 この、すでに碑面の定かでない石塔が赤穂義士の一人、寺坂吉右衛門の墓だと言い伝えられている。また、同所には吉右衛門の所持した武具類が埋められたという兜塚もある。
 赤穂義士四十七人中、寺坂吉右衛門だけが士分ではない。足軽という軽輩にもかかわらず、寺坂の墓とされるものが、前記以外にもう2基存在する。
 一つは、有名な泉岳寺のもの。実は、泉岳寺の義士の墓は48ある。うち46は、討ち入り後お預けになった四大名家ごとにまとまっている。他の2基は、水野家お預けの末端の「遂道退身信士・寺坂吉右衛門信行」と、松平家グループしんがりの「刃道喜剣信士」である。後者は、任官の話を断り切れず、同志との約束を守るため自刃した萱野三平のもの。しかし、いずれも供養塔に過ぎない。
 正銘の寺坂吉右衛門の墓は、泉岳寺と同じ東京都港区内の、麻布曹渓寺にある。
 寺坂は、討ち入りの後、泉岳寺門前で姿を消している。大石内蔵助と吉田忠左衛門(足軽頭)の指示で、計画通り討ち入り成功の報を諸々に伝えるべく立ち去ったという説と、逃亡説があるが、前者のほうが正しいようだ。
 彼は使命を果たしたあと、大目付仙石伯耆守へ口上書を差し出し自首したが、すでに四十六人の処刑も終わっているため、無罪放免となった。その後、吉田忠左衛門の女婿で姫路藩士の伊藤十郎太夫の許で、下男として12年務めたあと、江戸の山内主膳豊清家に30余年仕え、麻布曹渓寺に余生を送り、83歳の天寿を全う。戒名は節岩了貞信士。
 さて、このように正銘の墓所の定まっている寺坂であるにかかわらず、なぜ、西国のさいはて、久賀島に彼の墓と伝えられるものが存在するのであろうか。

深堀騒動と赤穂義士


 佐賀藩家老の所領地深堀は、代々長崎奉行の大番頭をつとめ、藩士たちは当番の年になると長崎の五島町にある屋敷につめねばならかった。
 元禄13年(1700)12月16日のことである。深堀の老家老、深堀三右衛門と志波原武右衛門は、折からの積雪に風流心をおこし、五島屋敷から長崎の町へ雪見に出かけた。その帰途、ぬかるみに足を取られた三右衛門が、折悪しく、すれ違った酔漢2人の着物を泥水で汚してしまった。酔漢たちは、今をときめく町年寄高木彦右衛門の身内の者である。相手が武士とはいえ老いぼれだと侮り、丁重に謝る三右衛門たちを容易に許そうとはしない。が、その場は、仲裁の者の労でことなく収まったかにみえた。
 ところが、夕刻になって、高木家の家来20数人が、五島屋敷に押しかけ、「さっき、高木家の身内の者に無礼を働いた老いぼれを出せ」
 とわめきながら、屋敷内に踏みこんできた。たまらず、三右衛門と武右衛門が、刀の柄に手を掛けようとしたところ、不覚にも大小を奪われてしまった。
 この様子は早速、長崎から3里離れた深堀に知らされ、夜明け頃には白装束の藩士30数名が長崎の五島屋敷に集結。
「藩の屋敷を町人が土足にかけ、狼藉を働いたのだ。2人の不覚者を引き連れ、彦右衛門宅に押し寄せ、討ち取って、我らも切腹いたす所存」
 と決した。三右衛門と武右衛門は、不覚者の汚名を晴らさんものと先陣をきった。堅く閉ざした彦右衛門宅の門は、一人が塀を乗り越え開ける。同志が入り終わるや、内からの逃亡を防ぐため、門を元どおり閉ざしてしまった。
 立てかけられた弓の弦を切り払い、槍は庭先に投げ捨て、襖や障子は外す−−戦闘の妨げになるものは、取り除かれた。
 老体とはいえ、昨日からの恥辱を晴らさんものと意気込む三右衛門が、逃げる彦右衛門の背に槍を突き立てていた。次いで、武右衛門が大刀でその首を打ち落とす。本懐をとげた二人は、即刻切腹し果てた。その結果、深堀側は10人が切腹、あとの9名は遠島。高木家は闕所、その家来たち8名は死罪を申しつけられた。
 これを「深堀騒動」という。高木家の家来どもの日頃の横暴さを知る町人は、こぞって、藩士たちに同情を示した。
 翌春、流人船が五島の島々に向かった。
 独り久賀島に流された志波原羽右衛門は、ある日、見知らぬ男の訪問を受ける。
 語り合ううちに相手の男に対する警戒心も解け、問われるままに騒動の全貌を明かしていた。
 男は厚く礼を述べると共に、ご赦免の日の早いことを祈りながら去った。
 赤穂藩士による吉良邸襲撃事件が起きたのは、翌、元禄15年のことである。
 この噂を羽右衛門に伝えた島人によれば、赤穂藩士の討ち入りの時の行動は、羽右衛門が見知らぬ男に語り伝えたこととほとんど同じであったという。

恵剣寺の僧になった赤穂義士


 その後、数年を経て、一人の旅僧が久賀島の流人小屋を訪ねてきた。羽右衛門はすでに赦免になり国に帰ってしまったことを島民が伝えると、僧は一瞬の落胆ののち、喜色を浮かべた。そのまま島の恵剣寺に住み着いた僧は、やがて病に伏した。その臨終に際して、檀家総代を枕辺に呼んで、次のように述べたという。
「拙僧は、実は赤穂四十七士の一人。寺坂吉右衛門信行と申す者。家老大石さまのお計らいで、その命令を果たし、切腹を免れたわけだが、その後、諸国を回って同志の回向を続けてきた。この島に渡ったのも、ここにおられた深堀の流人の方にお礼申したい儀があったからである」

「深堀義士」が「赤穂義士」の討ち入りの範になったというこの伝説が生まれた根拠は……?
 後発でありながら、赤穂義士が日本中で脚光を浴びたのは、事件の発端が殿中という江戸のド真ん中であったからだろう。片や、先行の深堀義士は、西のさいはてでの事件ゆえにマイナーの立場に甘んぜざるを得なかった。そのことに、島民が義憤を覚えるのも当然であろう。
 深堀義士への同情と敬愛から、彼らの慰霊を切望してやまない島民の心情が、この伝説を生んだに相違あるまい。



参考資料:『長崎の伝説』角川書店
(五島文化協会会長、郡家真一氏の談話)

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説明されねば想像もつかないような
事柄だからこそ、ドラマ性を帯びます。
今となっては確かめようもない話ですが、
このドラマ性ゆえ、末代まで
語りつがれていくのでしょう。

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(管理人)

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