その夜更けのことでございました。
 寝酒の効き目が遅く、やっとのことで眠りに落ちた時分でござんした。
「旦那さま、旦那さま」と呼ぶしゅんの声で、眠りの淵から呼び戻されるてぇと、雨戸を叩く音が聞こえるじゃありませんか。
 それは、風が叩いているてぇことは間もなく判ったのですが、枕元のしゅんの顔が行灯の灯りのせいか蒼白く浮かんでおりやした。
「旦那さま、火事のようです。あたし、風が強いので寝つかれずにいたのですが、先程から早鐘の音が絶えません。鐘の音に混って、人の叫ぶような声がだんだん大きく聞こえてくるように思えてなりません」
 床の上に身を起こし、耳をすませてみますてぇと、風に運ばれて間遠に聞こえるのは早鐘の音と人々の乱れた叫び声に違いない。
 雨戸を叩く風音と共に、ただならぬものを感じやした。
 火は神田佐久間町から発し、折からの北風にあおられ、その日の四ツ半頃(正午前)まで燃えつづけ、本町、石町、伝馬町、馬喰町、横山町、ついには堺町、葺屋町の両座をも焼きつくしてしまいやした。
 葺屋町河岸で隔てられた堀江町は、火の粉の飛来に見舞われたものの無事でござんした。
 夜っぴて、永代の方角へ避難してゆく人の波が絶えませなんだ。
 わたしは、昼前いよいよ火が芝居町に迫ってきたときにゃ、我が家の危険も顧みず、親父橋を渡り堺町へと走っておりやした。
 小指一本の老いぼれが火事場に馳せ参じたところで、火消しの邪魔をしに行くようなもんだてぇことは判っちゃおりやす。ただ消しとめたい一心でした。手出しの出来ない不甲斐なさから、火炎を上げる中村座に向って獣にも似た吠声を発しておりやした。
 初日を迎えたばかりというのに、無残にも大名題、小名題、櫓下(やぐらした)、役割看板など、墨痕鮮やかな看板が次々と紅蓮(ぐれん)に染まり、ついには、角切角に銀杏を染め抜いた定紋幕が溶け入るように空に散ったかと見る間に、櫓が大きく傾き、炎の中に突き落ちてしまいやした。
 わたしは、自分の首が死罪場の血溜めに落ちるのを見た思いで……。
「忠臣蔵」大序の幕が明く直前のことだったようで、逃げまどう客や芝居者たちでごった返すほんの四半刻の出来事でございやした。
 何度も突きとばされ、転んでは起き、起きては転びつ、帰りついた時にゃ、着物の裾は焼け、肘や膝には血がにじんでおりやした。
 すっかり取り乱し、土間を素足のまま行きつ戻りつしていたしゅんは、わたしの身形(みなり)を見た途端に腰が抜けたのか、土間に崩れ落ちるようにしゃがみ込むと両手を合わせておりやした。
 やっと火の手が止み、町にわずかな平静さが戻った時分、源三の女房が見舞いに訪れてきやして、お互いの無事を喜び合いやした。
 夕餉のときもそうでしたが、しゅんは、もう日が落ちる頃になっても興奮から醒めきれないのか、がたがたと小刻みにうち震えておりやした。歯の根が合わず、ろくに喋ることもできないほどで。
 しゅんにとっては、生まれて初めて味わう恐ろしさだったろうと察し、本人の拒むのを無理矢理床に入れさせやしたとも。
「スミマセン、モウシワケアリマセン」
 と、しゅんは一言ずつ言葉を呑み込むように、何度も繰り返しやした。
 昼過ぎに一旦止んでいた風が、日の落ちるのを待ちかねたごとくに吹き始めたようで、表戸ががたがた鳴りだしておりやした。
〈風向きが変ったな。今夜は火のでる気遣いはあるまい〉と、独りごちながら、心張棒を支(か)うために土間へ降りますてぇと、風の音にしちゃ、小刻みに表戸を叩く音でさ。
「誰だい、今時分?」
 と言って、わたしは小指が表戸に触れるか触れないうちに、すうっと戸が開いたかと思うと、素足の男が背中からついと入るや、静かに、だが素早く元通りに戸を閉めるじゃありませんか。
 わたしが文句を言う前に、相手は頬っかぶりを取り、
「篠屋の旦那さんでらっしゃいますね。おしゅんが永年やっかいになりまして。わたしは吉蔵と申します」
 と言うと、深々と頭を下げやした。
 身形はこざっぱりだが、月代(さかやき)と髭はのび放題にのび、落ち込んだ目は鋭い光をおびておりやした。
 男が着ている藍縞の木綿布子、こりゃ、しゅんが夜毎縫っていたものじゃござんせんか。
「するてぇと、お前さんがしゅんの?」
 驚いて座敷の方を振り返りますてぇと、いつの間に起き出てきたのか、しゅんがもうそこまで来ておりやして、
「吉蔵さん、やっぱりあんた……」
 と言ったきり、土間へころげ落ちそうになるところを、吉蔵がはっしと抱きとめやした。

◇◇◇

この話は、第8回に続きます。

大火事の夜に吉蔵が登場。

どうなるのか……。

次回のお楽しみです。

(管理人)

◇◇◇

第1回

第2回

第3回

第4回

第5回

第6回

第7回

第8回

最終回