翌朝、わたしが目覚めますてぇと、すでに吉蔵の姿はなく、しゅんは普段と変りなく表の掃除に余念がございません。
 念のために、吉蔵の様子を訊いてみますと、しゅんは躊躇(ためら)うことなく、
「はい、ご近所の手前もありますので、未だ暗いうちに回向院へ戻ってまいりました。旦那さまとの約束ですもの」
 と、右手の小指をちょいと立て、肩を竦(すく)めて小さな笑みを拵えやした。
 それから、つい先程源三の女房が生きのいい鮗(このしろ)と赤飯を届けてくれたことを聞き、改めて、今日は初午、稲荷祭の日だってことを思い出した始末でした。
 また、源三は、一緒に火鉢の前で酒を酌み交わした日から容態が悪くなり、ずっと寝ついてしまっていることも、源三の女房が告げてったと聞きやして、今度は女房がいかに勧めようが、一滴たりとも酒は口にすまいと心に決めて出掛けて参りやした。
 途中の店で初午を当てこんで売り出した団子を手土産に買ってはいったものの、源三、好物の筈の団子一個すら喰えないほどの衰弱ぶりでござんした。
 元気づけの積りで、枕辺に坐りいろいろ昔語りなどするうちに、悪い癖でまたもや尻が長くなり、酒の代わりに中食までご馳走になりやした。
 この日は、先日とは打って変って、冷たい北風が吹き、季節が逆戻りしたような鬱陶しい空模様でございやした。
 酒気のない躰を丸めるようにしての帰るさ、またしても、あの胸を突き刺すような半鐘の音が風に乗って聞こえてくるじゃありませんか。
 源三もそう永くはあるまい。悪い予感に突き動かされ、小走りに帰りを急ぎやした。
 表の障子に指をかけようとすると、いつになく半ば開いたまま。障子を後手に閉めると、台所を覗(のぞ)き込むように首伸ばして、威勢よく声を掛けやした。
「いま帰ったぜ、しゅん」
 ところが、いつもの明るい声も、土間を叩く下駄の音も応(こた)えちゃくれませなんだ。
 何処ぞへ用足しに出掛けたのだろうと諦め、着物の裾の埃を払って座敷へ上がろうとしたときのことでござんした。
 小さく、足の指に絡み付くものがあるじゃござんせんか。そいつを足の指にかけて、ひょいと拾い上げますてぇと、いつもしゅんが腰の辺りに掛けていた小さめな手拭いでして、その中から何か白い小魚に似たものが畳に落ちやした。
 這いつくばるようにして眺めますてぇと、驚いたことに血ぬれた小さな指じゃござんせんか。
 なお仔細に眺めますてぇと、それは、昨晩わたしの小指とからませたしゅんの小指じゃありませんか……。
 この日の火事は、木挽町の森田座をも焼き、ついに江戸の町から一時とはいえ、三座を消え失せさせてしまったのでございます。

 その日からの幾日かてものは、わたしは殆ど角火鉢の前に坐したきり、しゅんのことを思い過ごしやした。
 しゅんとても、篠屋を出ていくことになったのは余りにも突然の出来事だったに違いない。何故そうなったかという理由(わけ)をわたしに端的に教える方策をわずかの時の間に考えあぐね、しゅんは自分の小指を切り落し、残したに違いない。一旦は胆(から)を決めて回向院へ戻ろうとした吉蔵だが、たった二日にしろ、しゅんと過ごした仕合せなときを思うと、いたたまれなくなり、心を翻(ひるがえ)したのだ。突然の吉蔵の翻意に、しゅんはどんなに狼狽(ろうばい)したことだろう。そして、せんかたなく指をつめ、わたしへの詫びの証(あかし)としたのだろう。その刹那(せつな)のしゅんの思いは如何ばかりだったろう。
 こうして、しゅんのことばかり思いめぐらすのに随分と永い時を過ごしたかに思えたのですが、わずか二日しか経っていないことに気付いた時分、ふいに藤太がとび込んで参りやした。
「どうした、父っつぁん。元気がねえようだぜ。俺ィらこれから上方へ行くぜ。あの初午の大火のあと、お江戸の灯はすっかり消えちまったようだ。第一、小屋がなくちゃ芝居は打てねえ。幸い今なら上方の方が給金もいいし。いや、江戸を離れるなァ何も芝居者ばかりじゃねえ。今度の立て続けの大火にこりて江戸を立ちのく者ァ後を絶たねえようだ。そうかと思うと、あちこちで引っぱりなぞという女が続出、まだお天道さまの高いうちから男の袖を引くていうぜ。しかも、その中にゃ可成りなご身分の妻女も多いてことさ。一体この先、江戸の町はどうなっちまうんでェ。ときに、善七はまだ戻ってねぇようだが、おかしいなァ。俺ィら中村座の焼け落ちた夜、ちょいとその場所は言わねぇ方がいいだろうが、ヤツに会ったぜ。江戸に舞い戻ってるこたァ確かだ。善七、しょっちゅうこの近くまで来ちゃ敷居が高くて入れねぇでいるのかも知れねぇ。親父橋まで来ちゃ、おっかねぇ父っつぁんの顔が浮かび、思案橋にまわっちゃ、二の足を踏んでるんじゃ? もし戻ったら、余り叱らねぇでやってくんな。こう言っちゃなんだが、父っつぁんも齢だ、早く伜と仲良くやるにこしたこたァねえ」
 すっかりふさぎこんでいるわたしには構わず、藤太は一方的に喋り散らすてぇと、上方へとやらへ飛んでいっちまいやした。この間の、寿太郎の一件を問い質す暇もあったもんじゃありゃしません。
 藤太のお喋りの中で、気に懸ることが一つござんした。いえ、伜のことじゃござんせん。
 引っぱりとか言う女たちの中に、ひょっとして右手小指のないうら若い娘がいるんじゃないかってことでさ。

 その日も暮れはじめようとしていることは、表障子を染める夕映えが教えてくれやした。
 夕映え河岸の美しさを思ってはみるものの、外へ出る気にはなりませなんだ。
 夜更けて、またしても風が出たらしく、表戸を叩き過ぎて参ります。ふと、外の明るさに気づき表障子を見やるといいますてぇと、先刻まで夕映えが色添えていた辺りに月の光が差しそめているじゃござんせんか。
 やっとの思いで行灯に灯を点し、これまた、覚つかない手付きで、酒を充たした銚子を火鉢の銅壺におずおずと落し込みます。
 身の周りの人たちは、次々に姿を消しちまったというのに、自分だけが、いつまでも未練がましくこの世の糸にぶら下がっている、ぶら下がるにはきつすぎる小指一本でもって。
 なぞと思ううちに、急に胸がふくらみ、無性に三味線の音色が恋しくなり、永年立てかけたままの三味線箱を火鉢の傍へ運び出しておりやした。
 懐かしい音色がぎっしり詰っている筈の桐箱を開けた途端、わたしの目は一点に釘づけされ、つづいて、小指に痛みが走りやした。
 撥に、拳大の輪が結い付けられているじゃござんせんか。しかも、源三の女房が拵えていたと同じ助六でござんした。
 思わず、「おしゅん!」と叫んで、撥に頬ずりしてしまいやしたとも。
 撥の輪に拳を通し、左腕に三味線を抱いたわたしの姿、とても他人(ひと)にゃ見せられたものじゃござんせん。

 雨の降る夜は一しお床し、
 冴えては月になお床し。

 いつの間にやら、「身替わりお俊」の一節を口ずさんでおりやした。

(了)

◇◇◇

「夕映え河岸」めでたく終了。

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