「挨拶と『夕映え河岸』」三宅孝太郎 2002/9/8
 ようこそ、お越しくださいました。「夕映え河岸」連載にあたりまして、ひと言挨拶申し上げます。

 もう、ウン十年前のことになりましょうか。初めての長編小説「大芝居地獄草紙」を書いている頃でした。いや、正確には、その本の主人公・鶴屋南北についての資料調べに没頭していた頃のこと。ふと、同時代のことを短編にまとめてみたい衝動にかられて書いたのが、「夕映え河岸」でございました。
 時は、文化・文政期、ところは江戸。当時の江戸下町を調べれば調べるほど、わたしが生まれた頃の堺の町並みや人情とウリ二つであることを思い知らされ、自分の胸深くにある心情を江戸に移し変えてみようと思いたったのでございます。江戸にも堺にも、いまやシットリとして、しかも意気のいい人情など見つけ出すのは不可能でしょう。それだけに、いっそう創作意欲を掻き立てられたように思われます。

 幸い、この短編でオール讀物新人賞をいただくことが出来たのですが、その折の「秘話」を告白いたします。

 この作品は、ご覧のとおり、主人公の語り(一人称)で終始しています。だから、江戸言葉の使い方が難しかっただろうと、当時、多くの人に言われたものですが、その点は自信があったので、問題なかったのです。
 問題は、「言葉の時代考証」だったのです。ある箇所で、主人公は人生の道を踏みはずすことを述べるのですが、そこで、つい「脱線」と言わせてしまったのてす。
 もちろん、脱線などという言葉は、鉄道が敷設されて以降に生まれたわけでしょうから、大変なミスを犯したものです。
 これがキズになりながらも、よくぞ受賞できたものだと感謝している次第です。活字になる前に、そんな経緯を教えてくれてたのが、当時文藝春秋社の編集担当だった、現在直木賞作家として活躍中の中村彰彦氏でございました。
 かりに、「脱線」していなければ、いきなり直木賞候補に名乗りを上げていたかも知れぬ、と何度目かの酒席で、中村氏が言ってくれたように思うのですが。果たして、一人よがりの妄想かもしれません。
 さて、もともと「脱線」と書いてしまっていたのは、どの部分であったか、探しながら読んでいただくのも一興かと存じます。アラを探すのも、読書の愉しみの一つではないでしょうか。
 人生、ほんのわずかな「脱線」で、大きく方向転換してしまうことは、ままあるものでございます。だから、人生は面白いのではないでしょうか。
 ともかく、そんな一件があってからというものは、一字一句に神経を集中するよう心がけるようになったのですから、とくに思いいれの強い作品なのでございます。

 いずれ、何篇かの短編とともに短編集として上梓したいと思いますが、ひとまず、このホームページ上でご高覧いただければ幸いに存じます。