誰が言い始めたものか、“駈け込み宿の五助”と綽名(あだな)されちまって、もう七、八年にもなりましょうか。
 昔っから、駈け込み寺てのはあっても、駈け込み宿なんてぇのはついぞ耳にしたこたぁございません。寺にしろ宿にしろ、他所(よそ)に頼る術(すべ)を持たねぇお人が、さんざ思案の揚句、切羽詰って駈け込むということじゃ同じようなものかも知れやしませんが、こちとらのは駈け込まれたって、別段こうしてあげようああしてあげようてな知恵才覚がある訳じゃござんせん。
 所詮、俄(にわ)か仕立ての船宿のやもめ主、ど素人もいいところ。堀江町界隈の船宿といや、どこの家だって夕暮れ時にゃ屋号を書いた軒行灯(のきあんどん)に灯を入れ、こざっぱりした女の二人や三人を置いて粋に商いをしております。
 それに引きかえ、わたしの方は、商いなぞまるで判らねぇ外れ者でして。それでも、なんとか船宿篠屋の行灯を消さずに済んでいるのは、すべて船頭の源三のお陰。船の手配りはむろんのこと、女中の心配まで全部源三の骨折りで成り立ってる訳でして。
 そんな或る夏の夕暮れ時分でしたっけ、ひょいと、夕映え河岸の涼風に誘われて出てみるてぇと、幼な児の手を引いた母親がじィっと川面を眺めてるじゃありませんか。誰の目にだって、こりゃ身投げでもしかねないってことは一目瞭然。二人を連れ戻り、食事をさせ、なけなしの小銭を与えて帰したのがそもそものことの始まりで、別段偉いことしたという気持ちはこれっぽっちも持ちゃしません。
 しかし、人助けするてのはいい気分のものだって、初めて味わわせて貰いやした。
 その他で思い出すことと言や、若い駈け落ち者の一件でしょうね。冷たい時雨(しぐれ)の降る薄っ暗いやはり日の暮れでござんした。商家の手代風な男の胸に濡れた髪を埋めた女は女中か、いや、気の利いたこの頃流行りの縮緬(ちりめん)の前掛けなぞしていたから、多分どこぞの水茶屋の女だったのでしょう。
 来るなり、二階座敷へ上がったきり小半刻、ひょっとして心中でもされちゃと気を揉んでいますてぇと、やがて、段梯子をきしませて男が降りてきやした。男は、青ざめた顔をして、これから大坂まで舟を出してくれと言いますもんで、舟を出すのはこちとらの商売だから、船頭の源三に都合を訊いてみるてぇと、
「ようござんす。こちとら艫(ろ)一丁の渡世人でさ。お客が行けとおっしゃるなら、京上方であろうが、唐天竺(からてんじく)だってお伴致しますぜ」と、威勢のいい返事。と同時に、源三の素早い目配せ。
 齢はとりたくないもんですね。源三の目配せで、そんなこと出来ない相談だってことやっと判ったんですから。猪牙(ちょき)じゃ言うに及ばず、屋根や屋形で出たところで、この寒空にどれぐれぇ行けるか知れたこと。何よりも、舟で上方へなぞと考えるのは悪い了見の輩と決まっていまさぁ。若い二人をつかまえて、悪い了見の輩なぞと無粋なことは言いっこなし。するってぇと、この若いの、初手から意気地なし狂言心中をたくらんでいると見抜けたものだから、逆に強気に出てやりやした。
「さァ、聞いての通りだ。多少老いちゃいるが、意気のいいあの船頭も腕を撫してるところだ。さっそく上り舟の仕度にかかりやしょう」ってね。若いの、慌ててこうだ。
「いや、上方までというのは言葉のはずみ。実はわたしたち訳あって一緒になれないものだから、舟の上から身投げをと思っている。それでも舟を出してくれるのかい?」
 心中すると言えば、舟は出すまいと思ったんだろうが、こうなりゃ、いくら老いぼれたって若いもんの気持ちは手にとるように判る訳でして。
「身投げであろうが、芸者あげであろうが、お客に舟を出せと言われりゃ、断らねぇこの篠屋の身上でさ。さァ源さん、ご苦労だが相模(さがみ)沖辺りまで出してやってくんな。あの辺りまで行って、腰紐で結いた二人をどんぶとやりゃ、すぐにフカの餌食だ。すりゃ、醜い姿を人前に晒(さら)すこともあるめぇし」
 て、やったもんだから、やっこさんすっかり弱っちまって、「どうしよう?」なんて、とうとう二階の女に泣きつく始末。揚句に、男の方の親の反対で一緒になれない面当てに、狂言心中でもして親の許しを得ようとしたことを打ち明け、詫びを言い出しましたっけ。
 それでよせばいいのに、こうなるてぇとつい一科白(ひとせりふ)吐きたくなるのが身の因果でして、
「若いの、俺のこの両手の指をようご覧なよ」て、見得を切ったと思って下せえ。
 若い二人、腰を抜かさんばかりに驚きやした。そりゃ無理もない。両手の指は誰だって十本ある筈なのに、わたしのはこの通り右手小指一本だけ。左手なんざ子供が拳固を握ってるぐれぇだし、そりゃ醜いもんだ。
「どうでぇ若いの。お前も女に惚れたのなら、指がこれぐれぇになるほど惚れてみるんだな。心中ならそれからだって遅くはねぇ」
 それから三年も経ってたでしょうか、その二人、可愛い幼な児の手を引いて、お礼の菓子折なんぞ持って来たじゃござんせんか。
 その頃からでした、駈け込み宿の五助って綽名がぴんとくるようになったのは。
 おっと、別にわたしゃ、女に惚れたために小指一本になっちまったとは言っちゃおりません。若い者の気持ちを奮い立たせるための方便に、ちょいと利用したまでのことでして。
 いや、なに実際若い時分にそんな情のあることしていりゃ言うことなしてもんでしょう。
 ここまでくりゃ、どうしてもこの拳だけになっちまった両手の噺(はなし)はせずばなりますまい。

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この話は、第2回に続きます。

「この拳だけになっちまった」いきさつ、

気になります。

(管理人)

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