夕餉(ゆうげ)の後片づけを済ませるのを待って、しゅんを角火鉢の前に呼び寄せやした。
「改めて話がある」と言ったもんだから、しゅんは怪訝(けげん)な顔をしておりやした。
「いや、改めてと言う程じゃない。ほら、昼間駈け込んで来た寿太郎てぇ人、ひょっとしたらお前の顔見知りじゃなかったのかい?」
「いいえ。あの人がそんなことを?」
「そうじゃないんだ。ただ、わたしが源さんところから戻った時、しゅんはばかに楽しそうに話し合っていたもんだから、つい」
「あの人とっても面白い話をして笑わせるんですもの」
「そうだったのかい。いや、わたしが昔、中村座に勤めていたことを知っての駈け込み客なんて初めてだし、わたしのこと誰に聞いたか明かそうとしないものだから、ひょっとして、お前からでも聞いたかと思ってね」
「そうでしたか。どうも申し訳ありません。初めての人と無駄口を叩いてしまいまして」
「なに、お前が謝るこたァない。あの手の男は遊び馴れてるから、娘を笑わせるぐらいお手のものさ。余り気を許さない方がいいかも知れねぇな。お前に、何か気を引くようなことでも言わなかったかい?」
「気を引くってよく判らないですけど、しきりに借り物の衣裳は着づらいと言ってはおどけて見せたり、一度堺町の芝居においでと言いかけて、慌てて、一緒に行かないかって誘われましたけど……」
「ふうむ、そうだったのかい」
 わたしはまんまと一杯喰わされた己の愚かさ加減にあきれて、腹をかかえちまいやした。
 自分が笑われていると思ったしゅんは、急に泣き出しそうな顔をしましたっけ。
「お前のことを笑ったんじゃないから気にするんじゃないよ。そうかい、あの寿太郎て狐め、芝居においでと言ったのかい」
「あの人キツネですか?」
 しゅんの顔は狐につままれておりやした。
「そうかい、それで万事はっきりしたよ。実はな、中村座に勤めている藤太てぇ男がわたしを喜ばせるために仕組んだ芝居だよ、これは。だがな、藤太の書いた筋書きにゃ、しゅんのことが書かれちゃいなかったのさ」
「あたし、お芝居に書かれる訳ありません」
 訳がよく呑みこめねぇしゅんは、不機嫌そうでしたとも。
「寿太郎てのは偽名かどうか知らないが、多分駈け出しの役者に違いない。そいつを芝居志願の遊蕩者に仕立て上げ、ほら、あの時の衣裳を思い出してみねぇ。どこで都合つけたか借り物を着、わたしに中村座への口添えを頼む。芝居は懐かしいが訳ありで足を運べないわたしだ、これを機(しお)に再び楽屋に出入りすることになるやも知れねぇて思案さ。仮りに寿太郎の口添えはならずとも、とっくに芝居者から忘れられたと思っているわたしのことを覚えていてくれる者がいると知れただけでもわたしが喜ぶと考えての芝居だとも。確かにお前さんその場に居合わせなきゃ、まんまとわたしは嵌(は)められていたろう。あの寿太郎て男、そのうち大した役者になるやも知れねぇよ。わたしがちょいとなじってやると青筋まで立てた辺り、仲々即座に出来る芸じゃない。ところがだ、のっけに筋書きにないお前に出くわしたものだから、ヤツぼろを出しちまったのさ。芝居者てのは、しゅんのように初心(うぶ)な娘にはめっぽう弱く、つい己の尻尾をしまい忘れちまうものなのさ」
「ちょっと待って下さい、旦那さま。駈け込まれて嬉しい筈のお人を、どうしてむげに帰らせてしまったのですか。食事をしているとき、叱りつけて帰してやったとおっしゃったでしょう」
「そうさな。つい伜のこと、いや、自分の若い時分のこと思い出しちまって……。いくら遊び惚けてたっていい、心底芝居が好きか否かを試す積りで嫌味を言ったまでさ。と、言うのは上べで、実は、あの男のことのっけからわたしは疑ってかかっていたようだ。許しておくれ、しゅん」
「どうして、あたしに……?」
「わたしはひん曲った心であの男を見ていたんだ。いや、そうじゃない。わたしはお前のことを疑っていたんだよ。あの男はお前がわたしに隠していた好きな男だと何故か決めつけていたようだ。ヤツに唆(そそのか)されたお前が、やむなく手引きしたと早合点したわたしは、ヤツに敵意を持っていたようだ。こんな男に、可愛いしゅんが誑(たぶら)かされてたまるかってね。ごめんよ、しゅん。たとえ瞬時にしろ、お前を疑ったこのわたしを許しておくれ」
 わたしは、神妙に頭を下げやした。
「何をおっしゃるのです、旦那さま。こんなあたしに頭をお下げになるなんて、もったいない。どうか頭をお上げになって下さい。あたしは旦那さまがふと思われたと同じような女でございます。お許し願うのはあたしの方でございます。こちらに駈け込んできたとき、田舎で身売りされそうになって逃げてきたと申しましたが、あれは旦那さまの同情をかう為の嘘でした。房州の田舎から出て来たのは誠です。でも、身売りされそうになったと言うのはまっかな嘘でございます。あたしはただ、好きな人が生きているこのお江戸の空の下にいたいだけで、暫くの間羽根を休めさせて貰えればそれでいいと思って根も葉もないことを……。優しい旦那さまとこうして過ごすうちに、居心地のいいのを幸いにこんなに永の年月お世話になってしまいました。いつか、あたしの素性を全て打ち明けなければと思いながら、今日まで果たせずに参りました。自分の身は嘘で固めたまま、人の優しさをたらふく食べてしまうような悪い女でございます。どうかお許し下さい。現に、つい先頃、寿太郎って人がみえている時も、あたしは旦那さまに内証でその人に逢いに行きました。でも、その人はあたしの方から行ってあげない限り、どうすることもできません。逢いに行くと言ったって、お互いに顔を合わせることさえかないません」
 しゅんはそこまで一気に喋ると、畳に額をすりつけて泣いてしまいやした。
 しゅんが見せた初めての涙でござんした。
「よくぞ打ち明けてくれた。だがな、今日はそれ以上喋らないでおくれ。誰しも、どうしても人に言えないことの一つや二つはあるものさ。わたしだって、伜のことをお前にあらいざらい喋れないでいるくせに、いずれお前と一緒にさせたいなぞと得手勝手なことを考えたりしていたのさ。過去はどうあれ、今何を考えていようが、わたしはこうして一緒にいてくれるお前が好きなんだ。そんなに深く気に懸けることはないんだよ、しゅん」
 と、しゅんの小さな肩を拳で撫でるように叩いて言いますてぇと、しゅんのヤツ、「旦那さまァ」てんで、わたしの胸ぐらにとび込み、顔を埋めていつまでも泣きつづけましたっけ。

◇◇◇

この話は、第7回に続きます。

「その人はあたしの方から

行ってあげない限り、

どうすることもできません」

少しずつ謎が解けつつあります。

(管理人)

◇◇◇

第1回

第2回

第3回

第4回

第5回

第6回

第7回

第8回

最終回