芝居町とは葺屋町河岸で隔てられた堀江町に入るには、北は親父橋、南は思案橋のいずれかを渡ることになります。
 夕刻なら迷うことなく思案橋を渡り夕映えを楽しむところですが、この日はお天道さまもまだ高かった。親父橋を渡ることにしやした。それというのも、少しでも早く堀江町に着きたいという一心でござんした。
 橋を渡り了えると、ほのかな潮の香が、温かく身を包んでくれるようで、安堵致しやす。
 この頃にゃ、すっかり船宿の親父が性に合いだしていたのかも知れません。
 堀割りに舫(もや)っている猪牙舟や屋根舟が、高い陽を浴び、ときたま盛り上がる小さな白波とうち戯れておりやす。
 軒に吊した行灯と、腰高障子が粋な二階家が軒をつらねるこの界隈は、春未だしでこの時刻、そりゃひっそりと息をひそめて春らしい春を待ち侘びているかのようでして。
 篠屋は思案橋の袂近くで、ぐるりと川を見渡せる、界隈では一等地と言われておりやす。
 篠屋と書いた行灯はすすけちゃいますが、外周りはきちんと掃除がゆき届いていて、いつも乍(なが)らしゅんの心配りには感心させられやす。
 拭き掃除の水の名残りをとどめた表の腰高障子の前に佇み、おもむろに右手だけ懐から出すと、小指一本で障子を開けやす。
 折れ曲った土間の奥から聞こえていた菜を切る庖丁の音がはたと止み、
「お帰んなさい」と、しゅんの明るい声。
 座敷に上がると、床の間を背に欅(けやき)でできた大きな角火鉢の前に坐って、しゅんの来るのを待つのが外から戻ったときの常でして。
 床の間の掛け軸は、養父が左交師匠から贈られた“三味三昧”の墨書であり、その横に箱入りのまま立て掛けられている三味線と共に、養父銀助の遺品でございます。
 やがて、土間を叩く下駄の音が近づき、しゅんが湯呑みを載せた盆を持って参りやす。
 はずむような下駄の音を、可愛いとも、快いとも感じたものでござんした。
「今帰ったよ」と言う代わりに、「何か変ったことはなかったかい?」と訊きますてぇと、しゅんは、きちんと両手をついて、「お帰んなさい」と、も一度言ったあと、
「旦那さまが出掛けられたあとに、源三さん、昨夜から風邪でふせっていますので、今日はお休みさせて頂きたいということでした」
 そう言うと、湯呑みを火鉢の猫板の上へ、出来るだけわたしの近くへ、そっと置いてくれやす。
「そうかい。そいつぁいけねぇな。明日にでも見舞ってこよう。源さんが休みなら、篠屋の行灯にも灯が点(とも)らねぇもんな」
 わたしはそう言うと、湯呑みに両手を差しのべます。
 湯呑みたって、ただの湯呑みとはちと訳が違いまして、これにゃ可愛い花柄の布袋がまるで人形みたいに着せられているんでして。
 しゅんの優しさが溢れてるじゃござんせんか。わたしの円っこい拳(て)じゃ湯呑みが持ちにくかろう、熱かろうと慮(おもんぱか)っての手細工でございます。しゅんの優しい手細工の傑作は、何といってもお銚子でしょうね。火鉢の銅壺(どうこ)から銚子をつまみ上げるにゃ、わたしの指数が不足でさ。そこで考えてくれたのが、銚子の首に輪っかを結いつけることでした。それも、荒縄をほぐし、木綿の布切れと綯交(ないま)ぜて縒(よ)ったものでして、その輪に小指を差し入れて銅壺から銚子を抜きとり、盃の上で傾けるてぇと、実に旨く注(つ)げる仕掛けでございます。
 しゅんは、元はと言えば駈け込み客の一人でして、房州の百姓の娘が訳ありで江戸へ逃げてきたと申しておりやした。
 もう三年にもなりましょうか、そのままずっと女中として甲斐甲斐しく働いてくれていまして、篠屋にとって、いえ、わたしにとっちゃ大助かり、感謝感謝の気持ちでさ。
 よく働く上に、優しい娘であるばかりか、駈け込んできた時分にゃほんの田舎の小娘て風情(ふぜい)でしたが、今じゃどうして、切れ長の涼しい目といい、笑うと八重歯が小さくこぼれるいい娘になっておりやした。
 できることなら、伜善七と妻(めあ)わせてぇと思うのですがね、……。伜のことになると、また繰言めくのでよしやしょう。
 わたしはね、駈け込み客についちゃ、本人が喋りにくいことを敢えて聞き質(ただ)すつもりはござんせん。だから、しゅんの身の上についても、田舎の借金の形(かた)に身売りされそうになったから逃げてきたと本人が言いにくそうに語ってくれただけでして、それ以上のことは存じませなんだ。
 最初の一年ぐらいは、しゅんの挙動が気になりやした。何故って、その数カ月前にやはり娘が一人嫌な男に追いまわされているというので、そのまま置いてやったのですが、三日目にゃ、商いの金を全部持ち逃げされちまったことがあったもので。
 一年足らずのうちにゃ、そりゃしゅんのこと心底信じられるようになってましたとも。
 自分のことを穿鑿(せんさく)されないせいか、しゅんもわたしの指のことや、伜がどうして寄りつかねぇのかってことも訊きやしません。
 夜は夜で、わたしが例の銚子で寝酒を楽しんでいる傍で、せっせと針仕事をしていましたっけ。一年ばかり前から近所の家に、昼間の一刻(いっとき)習いに行ってただけでしたが、すでに着物ぐらい縫えるぐれぇになってましてね。
「暖(あ)ったかくなるまでに縫い上げて、旦那さまに着て貰いたくて。でも、あたしの縫った着物じゃ腕が通らないかも知れませんよ」
 なぞと軽口を叩いているかと思うと、さっと片付けては、わたしの背後にまわり、肩を揉んでくれたり致しやした。
 こうして一つ屋根の下に二人っきりで住まっているてぇと、奇妙なもので、ふと自分が若い女房を貰った気になったり、伜の帰りを待っている舅と嫁の風に感じたりで、そりゃ温かい心持ちのするものでして。
 それと言うのも、今までにこんな心根の優しい娘と一緒に過したこともなけりゃ、家の温かみというものを一度だって味わったことありゃしませんもの。

◇◇◇

この話は、第5回に続きます。

「訳ありで江戸へ逃げてきた」

しゅんという娘、気になります。

(管理人)

◇◇◇

第1回

第2回

第3回

第4回

第5回

第6回

第7回

第8回

最終回