八

 三年前、しゅんと手に手をとって駈け落ちし、房州から江戸へ出て来た吉蔵は、大工の腕を見込まれて品川の棟梁の処に見習いで住み込むことになったそうで。
 しゅんは、ふと小耳にはさんだ駈け込み宿の噂をたよりに篠屋の収ったて訳でさ。
 二人は、〈三年経てば晴れて所帯を持とう。それまでは辛いだろうが、会わずにおこう。同じ江戸の空の下にいるだけでも仕合せだと思うことにしよう〉てんだから、今時、健気(けなげ)なことを考える若者同士じゃござんせんか。
 神さまもヒトが悪ィや。三年間ぐらい二人をそっとしておいてやればいいものを。あと半歳もすれば所帯が持てるてぇ昨年の暮れ近くのことだったようなんですがね。吉蔵は、酒ぐせの悪い大工仲間にからまれ、言い争ってるうちに誤ってノミで相手を刺しちまったてんだからどうも、人の世の仕合せてなァ素直にゃ掌に入ってくれねぇものでござんすね。
 吉蔵はお定まりの牢屋敷住い。皮肉なものじゃござんせんか、それまでは品川と堀江町だ、逢うにゃ遠すぎる。今度は、男の方からうんと近くの伝馬町へ引っ越してきたのはいいが、下手人だ。所帯を持つどころか、もうこの世じゃ逢えずじまいてことになりかねねぇんですから。
 そう言や、去年の暮れあたりから、日頃明るいしゅんの顔にときどき暗い翳(かげ)が射すことがござんしたっけ。
 可哀そうに、誰にも言えず独り苦しんでいたのかと思うと、いじらしゅうてなりませんや。その間、お針の稽古に行ったついでなぞに、牢屋敷へ立ち寄って吉蔵へ届け物をしていたんですね。最後に布子を届けた翌日でさ、芝居町までも焼き尽した大火があったのは。
 火が伝馬町の牢屋敷をも一嘗(ひとなめ)にして燃えひろがってきた、あのときのしゅんの取り乱しようったらなかった。そりゃそうでしょう。旨くすれば牢が切放されるやも知れねぇていう期待で足もすくんだんですとも。
 どんな事情があろうと、人一人危(あや)めちまったんだ。生きて戻れる筈はござんせん。
 吉蔵が駈け込んできた翌日、二人を床の間の前に坐らせ、祝言をあげさせてやりやした。
 声を忍ばせて謡う「高砂」てのも随分と骨の折れるものでして、謡ってるうちに嗚咽(おえつ)してしまいやした。
 牢から切放されるとき、十日の初午の日までに回向院(えこういん)へ帰ることと命ぜられていたそうで。もし、そのまま帰らぬときは、罪が親、兄弟にも及ぶと申し渡されていたようでした。
 そうなりゃ、しゅんとて罪を免れません。
 たった二日間というつかの間の仕合せでもいい。二階屋敷を二人に与えて、所帯を持たせてやりやした。
 その間のしゅんの甲斐々々しさったらありゃしません。段梯子を登ったり降りたりで。
 わたしは気をきかせる積りで外へ出るよう心掛けやしたが、さて、そういうときにゃ何処へ行っていいものやら。手当り次第、あちこちの稲荷の祠をはしご参りしてやしたっけ。
 やっと掌(て)にした仕合せでしょうが、所詮、泡沫(うたかた)にすぎやしません。
 瞬(またた)く間に過ぎ去ろうとする二日間。翌十日には回向院へ戻らなきゃならねえその前の晩を迎えておりやした。
「どうだい、新所帯の味は?」
 話の糸口を探している二人には、わたしの野暮な科白が相応(ふさわ)しかったようでした。それを機にしゅんが喋り始めやしたもの。
「ほんとに、旦那さまには何とお礼を申し上げていいのやら。何から何まで迷惑のかけ続けで申し訳ありません。この二日の間、あたしはまるで夢を見ているようなときを過ごさせて頂きました。吉蔵さんは、明日、回向院へきちんと戻ることに致しました」
 てことは、二人して、このまま逃げのびる算段もしたということを暗に仄(ほの)めかしている訳でさ。
「きちんと約束通り戻っていれば、今度のことでも、むしろ相手の方に落度があったことが認められ、晴れて放免されることもないとは限りませんので。で、大変厚かましいお願いですが、あたしをその日の来るまでこちらに置いて頂きとうございます」
「何を水臭い。わたしはお前を実の娘のように思ってるんだ。自分の家にいる積りで、いつまでだって吉蔵さんの帰りを待つがいい」
「旦那さまァ」
 と、しゅんはわたしの円っこい右手を両手で包み、自分の額に擦りつけて泣きやした。
「これ程までご恩になり乍ら、あたしは今まで吉蔵さんのことで何一つ本当のことを打ち明けず嘘ばかりついていました。これからは絶対に隠しごとをしたり嘘をついたり致しませんので、どうかお許し下さい」
「そうかい。ようく判ったとも。これからはどんな些細なことでもわたしに打ち明けて、話しておくれ。そうだ、この残った小指で指切りしようじゃないか、しゅん」
「はい」
 しゅんは、自分の小指をわたしの皺だらけの小指にからませて、それはそれは、あどけない笑顔を拵えたものでございました。
 この小指一本、この日のために神仏が残しておいて下されたんだなぁて、しみじみ感じ入ったものでした。
 傍で不審そうに眺めていた吉蔵に、小指だけになった顛末(てんまつ)を話してやりやした。
 するてぇと、今まで黙りこくっていた吉蔵、突然、膝を揃えて喋りはじめやした。
「旦那さんの場合は、偶然とはいえ、人一人の生命をご自分の指を身替わりにしてお救いになった。俺ィら、自分の身を守るために相手を危めちまった。その時、も一人、旦那さんのように間に割って入ってくれる者がいてくれれば、こうしたことにはならなかったと思うと口惜しくてなりません」
「あたしがその場にいてあげさえすれば、手指はおろか、この身に替えてもその間に割り込んであげられたものを……」
 しゅんがそう言って、恨めし気にわたしの顔を眺めたときにゃ、わたしの背筋を冷たいものがぞぞっと這い登りやした。
 何故て、そいつぁ例の桜田治助の名浄瑠璃のせいでございますとも。
「身替わりお俊」の相手の名は伝兵衛てんで、吉蔵じゃなくて良うござんしたが、しゅんの口から吉蔵の身替わりになんて言葉が出たひにゃ、そりゃ吃驚(びっくり)しまさァ。
 いえ、それも咄嗟に思いついたのならまだしも、しゅんが初めて駈け込んできたときから、その名を聞いて妙に不仕合せな娘を連想せずにゃおれなかったものでしたから。だから、わたしはずうっと、おの字をつけず、しゅんと呼んできた訳でして……。

◇◇◇

この話は、第9回に続きます。

次回はいよいよ最終回。

管理人はこれ以上何も言うまい。

とにかく最後まで読んでくだされ。

(管理人)

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