幇間(ほうかん)と芸者の間に生まれたこの身、その行き先ゃ知れております。なおまずいことに、当時堺町、つまり中村座の囃(はや)し方をしていた銀助って人にわが子を預けたまま行方知れずのなっちまった父や母ですからね、その伜(せがれ)が真っとうな訳がございません。
 親父と餓鬼時分からの友達てことだけで、乳呑児を預り育てるはめになった銀助夫婦にとっちゃとんだ迷惑でさ。幸い銀助夫婦にゃ子供がいなかったもので、随分可愛がって育ててくれやした。ところが、五歳の誕生を迎えた頃、養母のこまは流行り病いでぽっくり。
 その後の養父銀助の苦労ってものは並大抵じゃなかったでしょう。楽屋にゃいつも子連れで入るもんだから、頭取りにいい顔される訳がない。
 それから間もなく、銀助父っつぁんから三味線仕込まれやした。熱の入れようったらなかった。撥(ばち)でもってひっぱたかれたのは、一日何度か数えきれやしない。あとで聞いた話だが、どうして始終撥で叩かれたかてぇと、呑み込みが早く旨く弾きすぎるてぇことで。
 養父の考えでは、三味線の芸でもしっかり身につけさせ、独りで世過ぎのできるようにということですが、そんな親心に気付いた時にゃ、養父は病いの床についてましたっけ。
 当時、養父の熱心さとは裏腹に、わたしの心はとっくに役者の方を向いておりやした。
 そりゃ、寝ても覚めても芝居の中にいてごらんな、いやがおうでも役者に憧れようってもんですぜ。何たって芝居の華は役者ですもの。養父にゃよく、身の程を知れって叱られやしたが、生意気盛りになってやしたから、
「家柄が悪くたって、栄屋さん(中村仲蔵)みたいな例もあるじゃねぇか。三味線ばかり抱いていたんじゃ、それもかなわねぇさ。俺ィら踊りを習いてぇもんだ」
 と養父にくってかかりやした。
 自然(ひとりで)に二十歳になったように思っている伜を説得しかねたんでしょう。とうとう、実の父や母のことを打ち明け、「お前にも家柄の良し悪しだけなら、仲蔵のようになれなくはなかろう。ところがだ、今だって仲蔵は仲々の男っぷりだ。お前は知るまいが、仲蔵がお前時分の頃にゃ存分に役者としての華を持ち合わせていたものだ。気の毒だが、お前は実の父親そっくり。その面(つら)は座敷や酔客相手の芸にゃ向くだろうが、舞台に乗る代物じゃない」と、こうでさ。
 そこまではっきり言われたんじゃ、二の句もつげませんや。
 実の親のこととともに、そりゃ聞かされた本人にとっちゃひどくこたえましたとも。銀助が養父だってことは、楽屋雀の噂で薄々は判っちゃいたとはいえ、三日三晩、一歩も外へ出る気力さえ失くしちまいました。
 見かねた銀助父っつぁん、狂言作者の道を進んではどうかと話をもちかけ、励ましてくれやした。随分と思案なすったようでした。
「仲蔵とは男っぷりが違う」のただ一言で役者への夢は断念し得たものの、さりとて、囃し方で通す気もないくせに芝居の魅力にゃ勝てない身にとって、作者という言葉は地獄で仏て感じで、素直に聞き入れられやした。
 作者なら、かねて尊敬していた左交師匠(桜田治助)か並木五瓶の門にと願っておりやしたが、銀助の持ってきたのは、福森久助への弟子入りの話でござんした。
 久助師匠は、将来を嘱望されちゃいるとはいえ、まだ二枚目作者で、弟子なぞまだまだというのをたって頼み込んだようでした。
 久助の弟子で十助(とおすけ)という語呂合わせみたいな名を頂戴したのですが、ちょいと数が多すぎたようで。十を半分にした五助、これが一番望んでいた名でした。何故って、治助の助と五瓶の五が目標でしたから。まさかそんなこと久助師匠に言えやしません。だから十助で我慢致しましたが、心じゃ五助だと名乗りました。今の五助って名の由来を語っちまったようですな。
 作者に弟子入りしたからって、もちろん直ぐに正本(ほん)を書かせて貰える訳じゃござんせん。
 役者の世界に、下立役(したたちやく)とか稲荷町(いなりまち)と呼ばれる最下級から相中(あいちゅう)、相中上分(かみぶん)、名題と序列がある如く、作者の方でも階級ははっきり分かれておりやして。
 最下級が見習い、次いで狂言方。その上の階級からやっと作者という名がついて、三枚目、二枚目、最上級は立作者(たてさくしゃ)と呼ばれ、当時でいえば桜田治助や並木五瓶なんて人が、その上々吉に属する作者でございます。
 見習いになったときにゃ、久助師匠は中村座に勤めておりやして、あの鶴屋南北師匠がまだ勝俵蔵と名乗って、久助師匠と同じ二枚目作者でした。その上に桜田治助がどかんと坐っておいでなすった。
 中村座の楽屋内は、餓鬼時分から出入りしていてあらかた判っちゃいる訳ですが、狂言方見習いとなると勝手が違い、初手から緊張の連続ってやつでして。
 楽屋内では、狂言方と囃し方の者だけが、お狂言さん、お囃しさんて具合に何故かおの字をつけて呼ばれるのでございます。
 このおの字がクセ者でして、決して敬う気持ちなぞ含まれちゃいません。むろん逆の心持ちから付けられているのでして。わたしなんぞ、囃し方から狂言方へ移ったんですから、言ってみりゃ、おの字のはしごみてぇなもんでさ。何故おの字をつけて呼ぶかってぇと、元々このどちらの勤めにしたって、待遇が悪いに拘らず結構身分のよい者が転がり込んでくることが多いもので。いや、身分がいいったって河原者よりはってことですが、それにしても、れっきとした商人の伜や、旗本の次男坊、坊主に医者なんてところがぞろりとおりやすんで。
 この連中ときたひにゃ、全部といっていい、さんざ遊蕩(ゆうとう)しつづけた揚句の、いわば成り下がり者。成り下がりで中年とくりゃ、おの字を付けて呼ぶ理由(わけ)としちゃ充分でしょう。
 わたしなんぞのような餓鬼の頃から芝居の泥ん中で育った者にとっちゃ、初手からどん底、成り下がりっこなし。まして、この世界、いくら名を上げたところで成り上がりにもなり得ない。言ってみりゃ、この世のぶら下がりってとこでさ。
 ご存知の通り、芝居の朝は早いもので、七ツ(午前四時)時分にゃ木戸が開く。どこの部署にいたって同じですが、各々の下っ端は八ツ半(午前三時)にゃ楽屋入りしていなくちゃならねぇんで。
 部屋の掃除からはじめて、火をおこし、水を汲んで湯を沸かす。そうこうするうちに稲荷町の連中による序開きでさ。役者も客もほとんど揃わねぇうちの芝居だから、役者の代りも勤める訳で。顔も拵えなきゃ衣裳もつけず、教えて貰いたての科白を喋ったりするのだが、こりゃ忙しいが楽しいものでござんしたね。
 次の二立目(ふたたてめ)に入る頃になるてぇと、上の作者がぽつりぽつりと姿を見せる。と、その都度お茶を出したり、ま、その後は日がな一日、上役に命じられるままのいわば丁稚(でっち)奉公人と同じ勤めでございます。
 ここでも天賦の才の器用さと、そつのなさのお陰で、三十歳になった頃にゃ狂言方から三枚目作者になっておりやした。
 作者といえば聞こえはいいが、殆んどは師匠の作の清書でさ。久助師匠って人は、もうその頃立作者でございましたが、一風変った気難しいお人で、仲々弟子に書き場を与えない。他所の師匠ン所の三枚目なら、師匠から貰った筋書きを仕組むことぐらいはさせて貰うのですが、久助門じゃその仕事は二枚目がやっと出来る程度でしてね。
 何年も寝たきりの養父を抱え、いい齢をして給金とてほんの小遣い程度貰うだけ。
 如何に好きな道とは言え、心にあせりが生じ始めても致し方ござんせん。
 その頃にゃ、むろん酒も女の味もとっくに覚えちまって、いや、その辺りのこととなるとそりゃ師匠がぞろりと揃っておりましたので。
 先程の極道中年のお狂言さんたちでさ。
「齢は若くても位は上だ。十助兄ィと呼ばせて貰うぜ」なぞと、程の良いことを言っちゃ、返す気なぞない金を甘っちょろい三枚目作者から借りることぐらい朝飯前でさ。
 そんなお狂言さんの中に、材木問屋の勘当息子がおりやして、偶々(たまたま)酒席でわたしが三味線を弾きつつ今流行りの都々逸を唄ったのを聞きつけましてね。
「十助兄ィをこのままうだつの上らねぇ狂言作者にしておくてはない。是非、吉原で馴染みの店にたいことしてご推挙致したい」
 と、持ち上げられやした。これが、そもそも、逸脱の始まりでございます。
 酒の味を覚えた頃から、実の父の血が騒ぎだしたのか、遊芸に芝居以上の魅力を感じ始めていたのは事実でした。楽屋内でのもめごと、病んだ養父との二人暮し、そんな鬱屈した気分を晴らすにゃ遊芸は又とない妙薬。
 それより何より、このままじゃ養父をろくに医者に診せることもできず、養母の墓も拵えてあげるわけにゆかず、この大恩ある両人に恩返しをするには金が欲しかった。
 たいこになる。−−このことについちゃ自分じゃ何の抵抗もありゃしません。自分で書くのは口はばったいが、自信はありやした。
 そりゃそうでしょう。この道にかけちゃ血統がいい。しかも、養父からは座敷や酔客相手の芸に向く顔だって折り紙をつけて貰ってる。これ以上の条件はありゃしません。
 狂言作者がたいこを兼ねるってことも、別段この道じゃ外れた考えじゃござんせん。そりゃ、立作者ともなれば別ですが、三枚目以下のお狂言さん連中が身過ぎ世過ぎに何をしようが、芝居の勤めに差障(さしさわ)りさえなきゃ、別段どうということもありゃしません。
 といっても、一応師匠の許しを得ておくことが肝要て訳でお伺いをたてにゆきますてぇと、これが案に相違というやつでして、
「三枚目になった途端に他所見(よそみ)がしたいだと? 三枚目ぐらいならどこのどいつだってちょいと辛抱していりゃなれるんだ。これからが正念場だと言う時に、一体お前は何を考えてるんだィ!」
 一喝され、肝をつぶす始末でしたが、何を考えてるゥと訊かれたから、素直に答えるしかありませんや。
 養父母に対する孝行がしたいと正直に申し上げるのを、じっと目を閉じて聞いていた師匠は、やがて大きく頷いたかと思うと、
「よし、判った。許してやる。成り下がりの連中が今さら親孝行がしたいなぞとぬかせば笑止千万だが、お前は連中と違って芝居の生え抜きだ。また、銀助父っつぁんのこともよく判る。よく男手一つでお前をここまで育て上げなすった。だがな、断っておくがお前の親孝行に免じて許すんじゃない。この道に入った限りはたとえ生え抜きだろうが、親孝行なぞ考えちゃならねぇ。孝行したきゃ、立派な立作者になることだ。お前を許す理由は、お前に芝居の外の世界を見させるためだ。その点、成り下がりの連中は、齢は喰っちゃいるが世間を知っている。お前ほどに辛抱努力すりゃ、いい作者になれる者は大勢いる。だがな、連中の殆んどは遊びの虫に骨の髄まで侵されちまってらァ。そこへいくとお前は逆だ。芝居の中だけしか知らない。狂言を仕組むにゃ世間を知らずば出来っこない。かく言うわしも余り大きなことは言えないが、幸いわしの身中にはもう一匹大きな芝居の虫がいてな、こいつが遊びの虫に勝ってくれたようなものだ。しかし、遊びの虫を全滅させちゃ芝居は書けねぇ。この辺りがこの道で大成する為の極意だろうよ。この極意さえ誤らなきゃ、いずれはわし以上に大成できるだろうよ」
 自分の趣向の芝居には弟子たちに立ち入らせまいとする、一見、頑迷とさえ思える作者久助を、この時ほど大きな人物に思えたことはありませなんだ。
 考えてみれば、師匠にしたって、元は成り下がりの口で、たしか本所の薪問屋の伜に生まれ、家は裕福、身は道楽、揚句の果てが勘当というお狂言さんの定石を踏んだ身。わたしのしみったれた親孝行噺にはいたく心を動かされたのではと思うのだが、そんな素振りは噫(おくび)にも出さず、ただ、作者修業のためだと許す辺り、多少芝居じみちゃいても、仲々の思い遣りじゃござんせんか。
 そんな訳で、かねてから胸にしまっておいた五助を名乗り、吉原の幇間、喋花の弟子となり、たいこと芝居の二足の草鞋穿(わらじば)き。
 それからは、あっと言う間の十数年。芝居の方では、師匠を贔屓(ひいき)にしていた関係で大和屋さん(三世板東三津五郎)には可愛がられ、稽古の時にゃ片時もわたしを傍から離さねぇぐれぇでしたが、作者としての地位は相変らずの三枚目で、一向にうだつが上がりゃしません。
 一方、片手間の筈のたいこ稼業の方は日増しに人気が出、たちまち喋花から離れて独り立ち。贔屓の旦那衆も次々増え、久助師匠は危惧(きぐ)なすった通りの主客転倒ぶり。血とは恐ろしいものですね。自分じゃ意識しないうちに、客の喜ぶ仕種(しぐさ)や科白が次々とび出し、親父の魂が乗り移ったように躰(からだ)が動くのでさ。
 こうして、色里で面白おかしく稼いでいるうちにいつしか不惑。その間に、養父銀助をはじめ、桜田治助、並木五瓶も相次ぎ亡くなっておりやした。
 その頃、幇間五助を贔屓にして下すったお客に、札差稼業の信濃屋久兵衛てお人がござんした。いつものように通人信濃屋さんの酒席で、歌舞音曲遊芸万般、持てる全ての芸をご披露し座を盛り上げている時のことでした。
 一人の酩酊した侍が、座敷に入ってくるなり、白刃を振りかざして信濃屋の旦那に切りかかったのでございます。咄嗟(とっさ)に旦那の前にとび出し、ヤボ侍が振り下ろす刀を両の手ではっしと受け止めやした。もちろん全くの偶然の出来事でしたが、それを見た粋人信濃屋の旦那、これもわたしの仕組んだ座興と思(おぼ)しめして、「いよッ! お見事。柳生五助ェ!」てんで、大喝采。
 とんでもねぇことで、やってる本人は文字通りの真剣白刃どりでさ。ヤボ侍め、その刀をぐいとねじりざま、さっと右に引き払ったからたまりませんや。
 右手小指一本になっちまった噺にだいぶ手間どりました。
 指をなくしちまったんじゃ、三味線はおろか、筆一本持てやしません。その日限りで、作者もたいこも一挙に廃業の憂き目でさ。
 もう一つ白状しちまいますが、たいこ稼業をしている間に、柳橋の芸者とできちまって、子までなしておりやした。正式に女房でしたが、この指一本になっちまった途端、手が円くなった亭主とまだ分別もつかない伜を見捨てて若い男とドロンでした。
 伜、善七はすでに十歳になっていたとは言うものの、もう目の前が真暗闇、誰も信じられなくなりやした。
 こうなったのも自業自得と、全て諦めの境地に達しかかった頃でした。噂を耳にした信濃屋の旦那が使いをよこし、
「先般、座敷に闖入(ちんにゅう)せし侍、日頃当方に恨みを抱きたる者が差し向けし剣客なること判明。貴殿の気転にて一命拾いし段、深く感謝致しおり候。ついては、かかる酔客の為に己が九指(死)を捨て、一生を得さしめたる当代一流の幇間五助に対し、船宿篠屋の名義を相譲り、過日の恩に報いたく存じ候。余生安穏に過されんことを希うものなり。尚、小生これを機会(しお)に遊興、酒宴の類全て相断ち、稼業専一にすべきことを誓約致すものなり」
 てな具合の恐ろしく畏(かしこま)った文を渡されやした。
 この時ほど泣けたことはござんせん。通と言われる程の人は、遊びの幕の引き方まで粋なもんだ。だけど、この時の涙は旦那の情に感じ入ったからだけじゃござんせん。江戸の空から粋な星が一つ消えちまったことが無性に寂しかったのでございます。

◇◇◇

この話は、第3回に続きます。

「作者もたいこも一挙に廃業」

船宿の篠屋を譲ってもらったのが

せめてもの救いです。

物語はこれからですよ!

(管理人)

◇◇◇

第1回

第2回

第3回

第4回

第5回

第6回

第7回

第8回

最終回