惚け老人対策として
藩医による安楽死という
非情手段に踏み切った
小藩に起こる騒動と波紋を
描いた、大好評短編小説。

第1回
(2003年3/2 UP)



「旦那さま」
 久純(ひさずみ)が手をとめ、ゆるりと振り返ったのは、琴(こと)が三度も声をかけたあとだった。
「ご所望のお茶を点(た)ててまいりました」
 縁側に座した琴は艶やかな笑みを浮かべながら言うと、傍らの盆へ微かに視線を流した。
「そうであった。茶のことを忘れ、無心に落ち葉と戯れておったわ」
 苦笑まじりに言うと、久純は竹箒(たけぼうき)を手にしたまま縁側へ歩をすすめた。
 夏の終わりを告げる風が、心地よく吹きぬける朝の庭先である。
 この夏の暑さは格別だった。降雨が少なかったせいか、秋の気配が立ちそめたばかりだというのに、木々の葉は醜く色づき早くも舞い落ち始めていた。
「茶は、こうして気ままに喫するのが何よりじゃ」
 久純は愛用の赤楽茶碗を両の手のひらで慈しむように包んで言った。そして、ふと、掻き集めた落ち葉の山に目を移して、
「もみじ葉なら風情ひとしおだが、病葉(わくらば)は始末におえぬわ」と溜め息をついた。
 病葉は、人に惜しまれることなく朽ち果て、寂しく土に戻るだけだと言いたいのであろう。琴には察しがつく。
 十徳(じっとく)の野袴(のばかま)すがたの久純に対して、丸髷(まるまげ)に小紋の単衣(ひとえ)の琴は、切れ長の目もと涼しく薄化粧。見知らぬ者の目には、父娘か、それとも義父と嫁のたわいもない長閑(のどか)なひとときと映るであろう。だが実情は、琴にとって久純は、あくまで「旦那さま」なのである。
 大場久純が藩の勘定頭を致仕し、家督を倅(せがれ)の大場彦之進に譲ってから二年経つ。妻は、五年前、彦之進が嫁をもらったあと急逝していた。
 彦之進の嫁、美紗は、彦之進の友人で御徒横目(おかちよこめ)をつとめる小暮平馬の妹で人並すぐれた美貌のうえに気立てのやさしさを合わせもっていた。勘定頭次役の彦之進に対してはもとより、舅(しゅうと)にも実意をもって尽くしてくれた。
 だから、久純にとって倅夫婦との同居生活に世間並みの不平不満があろうはずはない。ただ、余りにもかいがいしく嫁に振舞われることが、かえって心苦しく思わなくもない。
 また、生真面目で仕事一筋の倅と顔を合わせれば、もう関知したくもない藩内人事のいざこざに耳をわずらわされるのも厭わしいことのひとつだった。
 倅夫婦には二人だけの充実した生活をさせてやりたい。五年もたって子が生まれないのは、舅である自分に嫁がかまけすぎているからではと思いもする。隠居したからには、あらゆることから解放されたい。もっと気随気ままな、趣味三昧の生き方こそ望むところだった。
 当藩の城中、城下を問わず、往時より、茶の湯、華道、能楽が盛んであり、久純も御多分にもれず、これらを能くし、ことに茶の湯を好んだ。

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