惚け老人対策として
藩医による安楽死という
非情手段に踏み切った
小藩に起こる騒動と波紋を
描いた、大好評短編小説。

第2回
(2003年3/9 UP)

 もうひとつ、彼は他言を憚(はばか)るべき趣味を有していた。勘定頭という要職にありながらも、月に一二度は廓(くるわ)へ忍び通いをせずには済まされなかった。さりとて、淫欲絶倫というのではない。娼妓に酒の相手をさせながら雑談することを好んだ。
 隠居と同時に別宅(寮)を設け、行きつけの菊水楼の妓(おんな)、琴(こと)を落籍しての気ままな生活を始めたのである。
 城を西南に隔てること半里、藍川(あいかわ)上流沿いの、ここ清水町界隈には大店(おおだな)の寮や久純(ひさずみ)のような悠々自適をきめこむ粋人の隠居所が多く、風情をたしなむには絶好の地であった。
 とくに久純の家の庭では、藍川の流れと三畝山(みつねやま)が借景となり、ことに日没時に川と山が藍色一色に溶けいる様は思わず息を飲むほどの景観を呈した。
 粋人同士、互いの家を訪ね合い、趣味三昧にふける生活は申し分なかった。ところが、このひと月余り、久純は一切の交際を絶ちつづけていた。終日、借景にひたりながらの庭掃除に明け暮れていた。
 琴は気がかりでならなかった。
 原因は、親しくしていた粋人仲間が一人減り、二人減りしてしまったことだと察しはつくものの、果たして久純の嫡男、彦之進夫婦に相談をもちかけていいものやら決断しかねている。
「ここに移り住まわれてからのお父上は日毎に若返ってゆかれるようで、感謝しておりますのよ、琴さんのお蔭だと」
 余り足しげく訪ねては父上に疎まれますので、当分は参りませぬがと、嫁の美紗が言い残していったのは夏の初めの頃だったろう。
 二年近く前、この家で初めて彦之進夫婦に会ったとき、琴はまともに相手の顔を見られぬほど引け目を感じたものだった。
 彦之進は一言も声をかけてはくれなかった。多分、こちらが目を伏せている間中、蔑むような目を投げ掛けていたことであろう。しかし、美紗は久純から聞いていた通りの心の清い女だった。齢は二十五だというから、琴より二つ若い。年格好からみれば確かに姉妹として適うだろうが、余りにも身分が違いすぎる。にもかかわらず、琴を見る目にも話し振りにも屈託はなく、実の姉に対するような親しさで接してくれた。
 琴は泣き出したくなるほど嬉しかった。自分の半生をかけて久純に尽くす気になったのは、そのときからだった。
 だから、医者に診せるほどの病ではないはずの久純のことを、美紗に告げる気にはなれない。これしきのことは自分の裁量で処理し久純を立ち直らせなくては、美紗の志に報えないではないか。
 琴はそれまで以上の配慮で尽くしてみたが、久純の落ち葉掻きをやめさせることはできなかった。
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