惚け老人対策として
藩医による安楽死という
非情手段に踏み切った
小藩に起こる騒動と波紋を
描いた、大好評短編小説。

最終回
(2003年5/4 UP)

「聞くところによると、琴どのは菊水楼にいた妓(おんな)だと言うではないか。菊水楼、なんと懐かしい響きだ。俺は貴公が羨ましくて、こうして出向いてしまったのじゃ」
「ならば、今日の訪(おとな)いは琴に会うためだと言うのか」
「そうではない。菊水楼など、この数十年、無沙汰しておる俺だ。貴公の執り成しで、琴どののような妓を俺に世話してほしいのじゃ」
「しかし、おぬしには妻女が……」
「病身で、臥(ふ)せってばかりおる。そんなことより、大場、俺は隠居をして藩医師の手に掛かる前に死にたいのじゃ」
「死にたいとは聞き捨てならぬことを……」
「俺の拵(こしら)えた法で死んでいった者への謝罪の気持ちが半分。あとの半分は、俺の我儘(わがまま)。自分の意志で死にたい。といって、切腹するには大義名分がたたぬ」
「どうにも判じかねる。死にたいと思う者が、何故、妓を囲いたがるのだ」
「思い出してくれ、大場。昔、よく通った頃の菊水楼に、お園という妓がいたろう。お園の口癖は、『死なせてあげる』じゃった。幸い、このところの俺は心の臓も弱っておる。お園のような妓と過ごせば、半年を経ずして大往生できよう」
「そうだったのか、そこまで思い詰めていたとはな。承知したとも」
 久純(ひさずみ)は、憐憫(れんびん)に満ちた目を相手の俄(にわ)かに老け込んで見える眉間に注ぎながら言ったが、すぐに首をひねっていた。
「しかし、お園のような妓と一口に言っても難しいが、取り敢えず、菊水楼に当たってみるが……」
「琴どのに似ているとは思わぬか」
「そうだろうか」
 再び、久純は首をひねった。そして、しばらく考え込んだのち、何を思ったのか、いきなり腹をかかえ呵々大笑しはじめた。
 医者駕籠が二挺、大場の寮の檜皮葺(ひわだぶき)門を潜り、やがて出ていったのは、翌早暁のことである。
 先の駕籠には町医者が憮然として座し、後のには大目付小暮高次が躰をくの字に曲げて乗っていた。いや、乗せられていたと言うべきだろう。蒼白な顔に微笑をとどめてはいるが、もはや息はなかった。
「昔、お園を一晩、俺に譲ってくれた恩返しだ。今宵は琴をおぬしに譲ろう」
 昨夜、久純はしばし笑い続けたあと、こう言っていた。
「いや、一晩でなくてもよいわ。来たくなれば何時でもよいわ。もう一年ばかり、俺は琴を悦ばせてはおらぬ。琴は、さぞ不満だったろう。俺に代わって悦ばせてやってくれ」

 翌年の秋たけなわ−−
 すっかり陽の傾いてしまった縁側で、琴は久純の耳掃除に余念がない。
 琴の膝枕に片頬を埋めた久純の、ぽかんと開いた口から流れ出る涎(よだれ)は琴の着物を濡らし、濁ったその目は無感動に虚空の一点を眺め留まっている。
 藍川の瀬音に遮られながら間遠に聞こえているのは、つぶやくように唄う琴の声だ。
「死なせてあげる、死なせてあげる」と繰り返すのは、子守唄の節に似ていた。
 しばらくして、琴は手を停め、
「さぁ、きれいになりましてよ。明日は、やっと、お城からお医者様がお見えになりますのよ。そしたら、旦那様もわたしも、お互い、もっともっと楽になりましてよ」
 と、まるで乳飲み子をあやす言い方をした。
 そして、やおら庭に向かってあげた顔には、笑みが、こぼれんばかりだった。
 もみじ葉が幾重にも散り敷いた庭のかなたに、藍色に染まりはじめた三畝の山が黄金色の稜線にふち取られて横たわっていた。


(了)

◇◇◇

安楽死の制度なんかができたら怖いですが、
本質的には、女性のほうがよっぽど怖いです。

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