惚け老人対策として
藩医による安楽死という
非情手段に踏み切った
小藩に起こる騒動と波紋を
描いた、大好評短編小説。

第9回
(2003年4/27 UP)


「ときに……」と、
 久純(ひさずみ)は、琴が座敷から退き廊下を立ち去るのを待って訊いた。
 しかし小暮は、相手の不安そうな面貌に気付かぬ風に、
「いやはや、琴どののような女人を老後の伴侶となしえた貴公は、くどいようだが、やはり果報者じゃ」
 と、相変わらずの明るさで羨んでみせた。
「戯言(ざれごと)はそれぐらいにして、本意を聞かせてくれまいか」
 久純は、きっと相手の目を睨みすえた。「おぬしの口から告げ難いなら、俺が言おう。明日にも、藩医師の駕籠がここへ参る。そうであろう」
「そうか、やはり貴公も、それを気にしていたのか。ははは」
 と小暮は笑ってみせたが、真顔に戻るのも早かった。
「何を隠そう、そのことじゃ。しかし、当分は医者駕籠がやってくる気遣いなどあるものか。その通りの壮健さではないか。たしかに、貴公の様子を見ることも目的のひとつには相違ないが、最大の眼目は俺自身のことじゃ」
「おぬし自身の?」
「さよう」と、小暮は神妙な口吻(くちぶり)で語りはじめた。
「俺も、昨年の暮れあたりから隠居を考えぬではなかった。そんな矢先に、例の妻女連続自害事件の発生じゃった。藩のため、やむなく安楽死を賜わる制度をこの手で拵(こしら)えてしもうた。藩医師の……、その二人に実行に移らせてみて、ふと気付いてみれば、この制度は俺にとって全くの自縄自縛ではないか。実は、貴公にだけは打ち明けるが、俺は昨年あたりから急に物忘れがひどくなっておる。今も、藩医師二名の名を言おうとしたが思い出せなかったし、先だっても娘の名を突如失念した。こんな状態で隠居してみろ、たちまち藩医師の手に掛かることになろうが」
 久純は腕組みを解いて、相づちを打った。
 彼は小暮の苦衷を聞くうちに、先ほどまで抱き続けていた不安から解放されている自分を感じるとともに、自縄自縛に陥っている小暮を嘲笑したい思いに衝き動かされていた。
 それは、壮健者の心を無視した制度を拵えた者への快い復讐心にほかならなかった。
「貴公は、この俺を何と身勝手な男だと思うだろう。いや、隠さずともよい。俺は貴公を苦しめてしまった、許してくれ」
 小暮は久純の表情から彼の胸のうちを察したのであろう。辞色を改め、頭を垂れた。
「いちいち謝っていたのでは、政(まつりごと)は成り立つまい。指摘の通り、俺は今しがた、おぬしの悩みを聞いていて、笑い飛ばしてやりたいと思った。しかし、それは俺の隠居という無責任な立場から生じた軽薄さであった。許してほしい」
「何を言うか。貴公に嘲笑されて当然のことじゃ。何かと言えば、藩のため。俺は、そろそろ、それを口にするのに飽き飽きしておる。だから、隠居を考えたのではないか」
「で、俺にどうしろと言うのだ」

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